黒い柱に白い土カベ。開け放たれた窓辺に濃い緑と赤い大輪の花がゆれる。青いチョウが蜜を吸い、ツタをかたどった真鍮《しんちゅう》のシャンデリアの間を飛び惑う。
籐編みのイスにかけたアレフは、黒と茶の縞が美しいテーブルで何枚もの委任状にペンを走らせていた。
大金を扱う店舗は石造りで堅牢だが、大口の顧客を迎える応接間は中庭の離れ。高床式で風通しの良い木造の建物はまぶしすぎて、落ち着かない。
故郷では必需の暖炉は、ここでは形式的なものらしい。スス汚れひとつない窪みには大きなガラス鉢が据えられ、浮き草の下で銀と金の小魚が遊んでいる。
時おり眼前の男の秀でた額に刻まれたシワに目をやる。まだ書類に向けられている瞳は捉えてないが、薄い布を巻きつける様に相手の身と心を包む力を少しずつ強めていく。
昼間、人を呪縛するのは困難だ。指輪が生む夜の結界に力を削がれるだけではない。陽光の下まで行けば安全だという確信が呪縛を退ける。クインポートの自称町長の時は血を啜ったにも関わらず失敗した。今朝も痛い目に遭った。
直近の出来事を強引に忘れさせるのは難しくないが、しもべという恒常的な支配関係を築くにはある程度の同意が必要となる。自発的にせよ、仕向けたものにせよ。
そして手持ちの呪法では、闇への本能的な恐怖と、非日常がもたらす動揺に付け込まねば、快感を触媒とした崇拝を刷り込むことも出来ない。
ならば、正式に頼んでみるしかない。
商人なら不利益を上回る利益を提示すれば、説得できるだろうか。
「他にも移したい口座がある、条件次第でそれらの手続きもお任せしたい。そう、申し上げたら、オーネスさんは、引き受けていただけますか?」
ささやきながら、心話も送る。黒く細い目がわずかに見開かれる。書類を整える作業に入り、若い店員をドルクが昼食を奢ると連れ出してから、幻術をまとうのはやめていた。
「他に口座ですか。名義はどのように」
アーネストも架空の名だと気付いているか。これが元をたどれば表に出せない種類の金だということも。
「それぞれ別の名義で、別の者に手続きを進めさせています。ここを立たねばならなくなったので、監督をあなたにお願いしたいのですが」
「条件とは手数料の額でしょうか」
冷や汗と震え。あえて聞くのは、分かっていても否定したいからか。
「隠し持った手鏡で、うつして確かめる程には疑っていたのでしょう?」
足は金縛りにした。だが声は上げられる。誰かが来る前に、強引に噛んで記憶をいじる位は出来るだろうが。
「手前にとって、ずいぶん不利な取引に思えますが」
「他の商人も教会も知り得ない遠い地の出来事を、先んじて把握できるのは十分に有利でしょう。有能な両替商であれば」
「時に資産を数倍に増やすことも…ですか」
表面上は取り戻された冷静さ。だが心の天秤はいまだ定まっていない。眉間のしわは深くなり、その奥では損と得、道義と利がせめぎあっている。
「オーネスさんが、お断りになるなら…先ほどのお話は忘れていただいて、私は他の店に取引をもちかけるまでのこと」
二重の脅迫だということに、すぐ気付いたようだ。
断ったところで今から噛まれるのは変わらない。深く呪縛され操り人形となりながらも富を得るか…わずかな記憶を失って心の自由を守る代わりに、商売敵の隆盛を後ろから見上げるか。
追い詰められながらも、平静をとりつくろおうと揺れる目に、親しみを込めて微笑みかけた。魅了の力は込めない。あと提示できるものは誠実と信頼。
「こちらにお任せした口座を含めて、5つ。うち2つはもう送金の段階にあるものの、残る3つの進展度はほぼ同じ。私の…アルフレッド・ウェゲナーの意を受けて動く者となっていただきたい」
名前が与える衝撃を静かに見守る。言うことを聞かぬ子供を脅しつけるおとぎ話の魔物が目の前に現れたバカバカしさと、原初的な恐れと、偽名でありながら全てが正式に整いすぎている矛盾の解消。
諦めたような笑みが、やがて愉快そうでどこか空ろな笑い声に変わった。
「私を引き取り、この店の跡取りとして仕込んでくれた伯父は、ウェンズミート家の公子の御用を若い頃に一度だけ務めたと自慢そうに語る、困った男でした。そのせいで教会との取引に不利をこうむっていたというのに」
汗ばむ暑さの中でも礼儀正しく閉じられていた襟元のボタンが、外される。
「熱病で亡くなった伯父が聞いたら、うらやましがるでしょう。太守直々の口づけを頂いたと知れば」
さて、豊かな鉱山のひとつを任されている公子と、最果ての実り少なき乾いた地を治める副太守。正直どちらが上かは分からない。
念のため視線で縛りながら立ち上がり、テーブルを回って、オーネスの肩に手をかけた。閉じられたまぶたも、反らされた首もわずかに震えている。
「どうぞ、ご随意に」
無防備にさらされた喉に口づけた。
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