馬車が横風で揺れる。ルーシャの頬を緑の葉がかすっていった。おそらく風に吹き千切られたのだろう。西の空を閉ざす闇は暴風のきざし。死と破壊をまき散らして行き過ぎる黒い災厄だ。
「うっとおしいな、もう雨季かよ」
窓を閉ざしながらハジムがボヤく。仲間の顔さえよく見えない薄闇に沈む車内。風の音が強くなった気がした。
「乾季でも嵐は来る」
オットーが天井を見上げてため息をつく。屋根に縛りつけた装備が気になるのだろう。
御者が馬にムチをくれる音が響き、揺れと車輪の騒音がひどくなった。おそらく次の駅…タログで嵐をやり過ごすつもりのようだ。蒸し暑く視界もおぼつかない車内で、ルーシャは吐き気をこらえた。
どれくらい車酔いに耐えたのだろう。他の者には短い時間かもしれない。馬車の揺れが減り、木の門が開かれる音がした。人の声、複数の馬のいななき。嵐が来る前になんとか駅に着いたらしい。
扉が開けられ、ステップを下ろしながら御者が駅宿を指差す。降りるとそこは車庫の前だった。駅の職員と御者は、馬と車体と荷の安全で手一杯。乗客は自力で石造りの宿まで走れということらしい。
降りだした大粒の雨の中、ルーシャはアニーの手を引いて走った。あたりを白く染める閃光と耳が潰れそうな雷鳴に悲鳴が上がる。
乗客同士で励ましあい、なんとか宿に飛び込んだときには、肩と髪はずぶぬれ。皆の足元は浸水したかのような惨状を呈していた。
「こんな嵐でなければねぇ」
体を拭く布を持ってきた女中は、申し訳なさそうに鎧戸に目をやった。ルーシャたちが割り当てられた部屋からは、森と大湖が見えるらしい。横殴りの雨や小枝が当たる音を聞けば、景色を眺めるなど無理だとわかる。
頼りないロウソクの光が透き間風に揺れる。心を落ち着ける酒を舐めながら、ルーシャはいい機会だとホーリーテンプルへの報告書をしたため始めた。
「律儀に報告なんかすると、また前みたいに意地悪されちゃうよぉ」
しなだれかかってきたアニーの手にはトラッパ酒の瓶。これから口にするのは酔わないと話せない事柄らしい。
「モルの欲張り野郎は、自分以外の司祭がヴァンパイアを倒す栄誉によくするなんて、絶対認めないよぉ。メンター副司教長サマは、タテマエはともかく、討伐には何だかんだで反対だし」
「アーネストとかいうヴァンパイアが使った治癒呪。あれはテンプルの術法じゃない。いくら成長期の子供とはいえ、傷跡一つ残さないなんて、アニーには出来るか?」
首をかしげる同僚の肩をつかんで座らせた。
「ミルペンの時とは違う。少なくとも副司教長派の人間を、モル司祭が不死化させたモノじゃない。邪魔されるイワレは無いはずだ」
「じゃあ、賊を1人連れ去り、湖岸の未亡人をたぶらかしたのは誰よ。砂漠の城を訪ねる時は女の子を水袋扱いして、今も聖女見習いを連れまわしてるヴァンパイアは、東大陸から来た旧時代の生き残りって事になるわよ」
「アレフか。だとしたらオレは人形劇の様に感動的に死なねならんな」
自嘲的な笑みを浮かべたオットーは、淡々と武具の手入れを続けている。
「さすがに始祖は出張って来ないだろう。中央大陸の動静を探り足がかりを作るよう命じられた操り人形のはずだ」
もし、手足となる下位の吸血鬼を作り出し、呪いを広げていたとしても、元凶を滅ぼせば全てが灰と化す。だからこそ、始祖は安全な棲み家から出てくる事はない。
「“闇の子”か。そいつ、舟で湖を渡ってんだろ。ここまで来る間、ヨソの舟がついたって話は聞いてないよな」
「ここタログの港か、もっと北の漁港で上陸したかも知れない」
ハジムが唇を舐めて笑う。
「今も湖の上なんじゃないかな。そんで舟がひっくり返って、魚のエサになっちまってたら、笑えるよな」
「不謹慎だ。舟には雇われた船頭と…聖女見習いも乗っている」
たしなめながらも、舟が2度と見つからない可能性の高さを思った。結末をこの目で確かめられない。そんな曖昧な終わり方もあるだろう。
それともうひとつ、この嵐がもたらす効用を思いついた。
「今、風は北西から吹いている。沈まなかったとしても、嵐で舟が吹き戻される事も考えられる。今度こそ、追いつけるかも知れない」
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