濡れ布巾に縞瓜を包んでぶら下げてきた婦人をドルクは呼び止めた。体調の思わしくない若い友人を案じて見舞いに行くところだと婦人は笑った。水菓子の美味い屋台を聞くフリをして何とか足止めした。すると今度は、元テンプルの剣士などという物騒な経歴の持ち主までやってくる。アレフ様は少しばかり厄介な贄を召されたようだ。
(終わった)
そう告げられてため息がもれた。甘味の話に混ざる夫への愚痴、それに酒談義が加わるという、混沌とした会話を何とか終えてホッとする。アシ原の向こうから足早にくる主と、酒好き男が何事もなくすれ違う。
「ハンスもミリアんトコへ行くんじゃ、あたしゃ、お邪魔だね」
片目をつぶって見せる婦人に、訳知り顔で笑み返し、とっておきの屋台を教えてくれた礼を述べた。そして、足早に湖岸を離れようとしている主を追う。
思えばこれまで、外に出られる時はわたくしを始めとする護衛が随行していた。それが密やかな逢瀬であっても。声の届かぬ場所に控え、余人が立ち入らぬよう目を光らせていた。そういうものだという諦めを崩し、自信を持たれるキッカケとなったのはドライリバー城跡での無茶な単独行。
わが主の顔も名も、知る者がまずいない異郷の地。無名の旅人に向けられる適度な注目と無関心。思いかげずに得た休日をひたすら1人歩きに費やされるのは、初めてのご経験だからだろう。心の向くまま1人で町を探索出来る喜びに目を輝かせておられた。
お供は無理だと申し上げた際、歩き始めたばかりの幼子を思わせる笑顔に、多少の乱行と揉め事の後始末は覚悟していた。だが、近づくものを足止めしろと命じられた時の、すすり泣くような心話はいったい。
「何があったのですか」
家々が高床の廊下を共用しあう下町に入り、狭い赤土の道を急ぐ者たちの間をすり抜けながら、ささやいた。
「子供が…いた」
奔放な夜歩きを楽しむうち警戒心を忘れてしまわれたか。訪ねる前に相手の都合を聞くという発想は…まぁ、一度口付けを与えたしもべ相手に遠慮なさるような方ではないし、今さら忠告さしあげても仕方ない。
「目撃者の呪縛は、なさいましたよね?」
横に振られる黒いフードに、思わず詰め寄った。
「何をお考えなのです。顔を見られたのでございましょう?あの剣士に話してしまったら」
「息子には手を出すなと、しもべに…血と引き換えに頼まれた」
子供が見ている前で母親を召されたか。なんとむごい事を。いや、今は同情している場合では無い。
「もう宿には戻らないで下さい」
戸惑ったように振り向かれたアレフ様は、まだ事態がお分かりでないらしい。
「よろしいですか。宿や酒場で銀髪黒衣の若者を探していたテンプルの者がいて、そこに貧しい子供の言う事とはいえ今回の件が加われば、良識という幻が破れてしまいます」
考え込む主の腕を掴み、さらに声を潜める。
「両替商を1人、呪縛して代理人になさってください」
「そのことは…何も強硬な手段を用いずとも」
ウォータについた直後にも進言した。あの時も却下された。だが、今は引き下がれない。
「多すぎる金は、人の心と人生を捻じ曲げてしまうものです。顧客が2度と戻ってこないと分かれば、信用を第一と考える誠実で善良な者にも、悪心が生じましょう。まして、その半額なりとも教会に寄付するならば」
(魔性の者が人から搾取して成した財を、奪い返した英雄との誉れも得られましょう)
主の顔に生じる惑いと諦め、そして後悔と決意を読み取った。
「めぼしはつけてございます。教会との距離のとり方を心得た有能な男で働き者。そろそろ店で開店の支度をしているはず。ご案内いたします」
主の横を抜けて、坂道を登る。
あとは、宿でまだ眠っているティアに金を持たせた使いをやって現金で支払いを済ませ、なるべく早い便の馬車で町を立てるよう…いや、足取りをなるべく辿られない様にするには、いっそ舟を雇い対岸に渡ってしまったほうが良いかもしれない。
幸い、今日の大湖は穏やかだ。風を操れば一枚帆の小舟でも、数日のうちに北の湖岸につくだろう。
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