空気が重く肌にまとわりつく。人いきれだけで霧が生まれる。真夜中を過ぎても明りが灯り、月が雲に隠れても真の闇はおとずれない。常に人の気配がして、落ち着かない。
世界最大の淡水湖がうるおす大都市キニル。湖岸沿いの下町を歩いてみたが、結界にスキはなかった。湖に意識を向けると常に頭が締めつけられる。人の目に安らぎを与える岸辺が、アレフの目には歪んで見える。
暮れゆく波打ち際から走ってきた子供が、堤防に並べた焼き物やガラスの丸いカケラ。銀貨1枚でひと握り。血を捺《お》してドルクに並べさせ、結界の相殺を試みたが効果は薄かった。
落胆で終わった幾つかの試みを振り返りながら、にぎわいの中を歩く。すれ違う人々の心からこぼれ聞こえるつぶやき。わずらわしく感じるのは結界のせいなのか、朝の出来事を納得し切れていないからなのか。
等しく朝日を目にしながら、今宵を迎えられなかった命。
実際に手をくだしたのはドルクとティアだが、生命が消えていく最期の想念は頭に残る。心を押しつぶした感触が後悔を広げる。善意に付け込みダマして得た血と共に、取り込んだ想いが内側から心を刺す。
道にはみでた箱と樽と板の食卓で、貝や野菜のスープにひたった麺を食べる若者の群れに目を細める。頼りないロウソクやランタンに本をかざす彼らが妙にまぶしい。そして哀しくも感じる。
乏しい光の中で文字をたどり、英雄になることを望んで受ける選抜試験。その行き着く果てに無残な死が待つと彼らは思わないのだろうか。倒すはずの者に捕らえられ、血を吸われて終わるかも知れないと。
まだ飢えていないのに、みずみずしい首筋に引きつけられる。
若い命で薄めたいのかも知れない。仲間の骸のただ中で、冷たい口付けを受け入れた女の悲嘆と絶望を。
だが獲物はまわりにあふれていても、道端で食らうわけにはいかない。裏道にも人の気配が複数ある。あてども無く迷路のような道をたどるうち、四角く狭い庭に踏み込んでいた。
見上げると窓に幾つか明りが灯っている。教本を照らすトマろうそくの控えめな光。繰り返し読む小さな声。書き写すことで暗記を試みている気配。テンプルの選抜試験は2ヶ月後、か。
安普請のこの建物は引退した教育官の持ち物。細かく区切られた貸間に住むのは、試験に挑む若者ばかりのようだ。
大抵は相部屋だが…3階右手の部屋の主は、少し裕福そうだ。本や衣類が積みあがった狭い部屋を1人で占有している。
壁の薄さは気になるが、悲鳴さえ封じれば少しくらい乱暴に事を運んでも疑われないだろう。壁のキズ。散らばった本の潰れたカド。部屋の主は行き詰ると物に当たるクセがあるようだ。
幸い、訪ねてくる友人もいない。キニルに滞在する間、毛布をかぶった若者は安全な提供者になってくれる。
とがめるようなドルクの視線を背中に感じながら、きしまないように階段を上る。せまい廊下をたどり、薄い扉を軽く叩いた。
「ジャマするなと言ってるだろ」
壁にぶつかる本。立ち上がり2歩で扉に手をかけ、開けると同時に彼は怒鳴った。
「お前らと付き合ってると、バカがうつるんだよ」
知り合いでは無いと気付いて、何やら謝罪を呟く口を手でふさいだ。足元の本の山を蹴り崩しながら壁に押し付けて首を噛む。後ろでドルクが扉を閉め、見張りを始める気配を感じた。
数口ばかり味わう間に呪縛をかける。
他者との比較から生まれる強い恐れと、根拠の無い自信と高揚感が混ざり合う、不安定な若い心。
あなたは優秀だと甘くささやき、たわめて丸めながら、手こずっていた幾つかの言葉と概念を刷り込む。
なかば物置棚と化している壁の寝台に寝かせて部屋を出たときには、気分は治っていた。無言のドルクに笑みかけ、階段の踊り場まで跳び降りてみせる。
暗い小路を戻りながら、若者の血がもたらした高揚感に温かく酔う。
だが、不意の脱力感に足が止まった。首筋の甘やかな疼痛。頭頂に弾ける多幸感。全身から精がほとばしるかのような果ての見えない快楽。寒さと死の予感に震えながら思い出した。
昔、1人の贄を父やネリィと共有した時に、近い感覚を味わった。
しもべにした人間を、別のヴァンパイアに奪われようとしている。
「どうかなさいましたか」
「しもべを、横取りされた」
急いで駆け戻る途中、不遜なほどに自信家だった孤独な若者の意識が永久に途切れた。
喪失感にしばらく立ち尽くした。
やがて怒りが胸に湧き上がってきた。
あまりに非道で礼儀知らずな同族を、引き裂いてやりたい衝動にかられる。
人とは違う気配が窓から中庭に飛び降り、こちらへゆっくりと近づいてくるのを感じた。
姿を現したのは巻き毛の男。暗赤色の上着のエリに指を滑らせながら、赤い唇に小ばかにしたような笑みを浮かべていた。
「北の果てからキニルまで、遠方はるばるご苦労さん。だが、ここはイナカ者には暮らしにくい街だ。でもって下町はオレの狩場だ。痛い目を見たくなかったら、とっとと帰りな」
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