「チコっ!」
それは死んだ弟の名。銀貨50枚であたしを売った片目の男がカン違いしただけ。けど、わたしは素直に返事した。格子の向こうにはあたしの体や家事の腕をほめる売り手と、口汚く値切る買い手。もう名前なんてどうでもいい。鉄の鎖で首輪につながれた手かせが痛い。どうせ持ち主が変わったら別の名前をつけられるから。
低い屋根を燃やす火に、父さんが上着を叩きつけながら逃げろと叫んだのは何日前のことだろう。畑に駆け込んだあたしと弟は、片目の男になぐられてしばられた。そして知らない子供や女の人とナワで繋がれ歩かされた。このネラウスにたどり着く2日前、あたしの背中で弟は死んだ。
「今日からこの人がお前のご主人様だ」
辛い思い出にひたっている間に、買い手が決まったらしい。格子戸から引きずりだされた。日がまぶしくて目がしばしばする。目の前に父さんと同い年ぐらいの人が立ってた。顔の下半分を茶色いヒゲが包んでる。
「私は主ではございません。本当の主に引き合わせる前に、まずは着る物を買いに行きましょうか」
古着屋さんでクサリと手かせを外された。青くて丈夫そうなスカートと白いブラウスをあてがわれ、首輪の代わりに赤いリボンをえり元に結ばれた。
それから石で作られた三階建ての家に連れて行かれて、泥と馬糞まみれの足を冷たい水で洗った。階段の先に扉があって、その先にまた扉。そこに新年のお祭りの時しか食べないような鶏の丸焼きやくんせい肉の薄切り、チーズや果物のお菓子、そして白いパンがテーブルの上に乗っていた。
反対側の席に同い年ぐらいの女の子がいた。灰色の法服を着てる。日が長くなるころ、麦袋を納屋からゴッソリ持っていく教会の人の仲間かな。でも顔は怖くない。
「あなたのお名前は」
新しい名を聞こうと耳を澄ませた。呼ばれたらすぐ返事しないと叱られる。
「な・ま・え」
「はい」
今度はナマエ。チコより女の子らしいかな。
「だから、名前」
「はい」
親がつけた名を聞かれていると気づくのに、3回ぐらい同じやり取りを繰り返した。それから大笑いして一緒にご馳走を食べて、いろんな事を聞かれて、いろんな事を話した。ティアさんはあたしを、初めてのトモダチだといった。
ヒゲをはやしたドルクって人はいつも笑顔だけど、ていねいでヨソヨソしい。あたしを買ったときの名前で呼ぶ。日が沈んだころ起きだして来た本当の主って男の人は、少し年上で髪も顔も白くてツルっとしてた。ずっと機嫌が悪くて、夕食の間も馬車に乗ったあとも無口で、そっぽ向いてた。
馬車の旅に同行して雑用するのが仕事っていわれた。夜中、馬車はでこぼこ道を走って、日が昇ると止まってたき火して朝の支度。昼は眠って夕方におき火を起こして夕食の支度と、真夜中のお弁当作り。
でも、ティアさんとドルクさんが手伝ってくれるから、大変じゃなかった。あたしがヤセてるからって、パンの上に分厚いチーズや一番大きい肉の塊を乗せてくれた。文字と計算も教えてくれた。あまりにも良くしてくれるから、不安だった。
道から外れて荒地を走り出した次の夜。
ドルクさんが馬車を止めて、ティアさんが出て行った。真っ暗な中で機嫌の悪いご主人様と2人っきりになった。座席に押し倒されて赤いリボンほどかれて、えり元をはだけられたとき、やっぱりって思った。目と足を強く閉じて大声を上げようとした。トモダチなら、助けに戻ってきてくれる。
冷たい唇がのどにふれた。声が出なかった。初めて聞いたご主人様の声は忍び笑い。あたしの喉に噛み付いたのが何なのかわかった。痛くて怖くて涙がこぼれた。ナメクジみたいな冷たい舌が気持ち悪い。
お祖母ちゃんの昔話は大ウソだ。ちっとも嬉しくない。気持ちよくない。冗談ばっかりいってたゆかいなシーナン様だって、本性はあたしの血をすすって満足そうにためいきついてるご主人様と同じモノ。
誰もいないお城を今もお掃除しているロビィや、すぐ砂鉄が詰っちゃう手のかかるオートマトンも全部おとぎ話。みんなウソっぱちだ。
泣きながら馬車を飛び出したけど、靴をはいてないから痛くて立ち止まった。街道から外れて馬車はだいぶ走ってる。ここで逃げても行き倒れになるだけ。
泣いてたら、ティアさんが後ろからそっと抱きしめてくれた。
「ごめんね。今は無理だけど、いつか一緒にあいつから逃げよう」
そっか、この人も一緒なんだ。そう思ったら少しなぐさめられた。
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