とがった半島と深い湾が続く海岸。
少しずつ沈降していく小さな漁港を無償で貸し与えた時、期限をたずねる教会の者どもに、こう言ってやったとワイドールは笑った。
「海中に没するまで」と。
数万年後も生きていると確信しきった不死者の傲慢《ごうまん》。
ワイドールは20年前に滅び、漁港は大陸随一の港湾都市スフィーとなって今も在る。
とはいえ…
海からぬっと伸び上がる黒い壁を見上げながら、皮肉な笑みを浮かべられるのは、今だからこそ。
船を導く灯台も兼ねた幾つかの見張り台。300年前、上に案内されて交易船が居並ぶ港と、月の下で眠る出来たての街を見下ろしたとき、アレフの胸にあったのは羨望とあきらめだった。
首都バフルの居城ですら過去の城砦を改修したもの。開祖モルが描いてみせた、学問の拠点となるべき数千人を収容できる強固な建物など夢また夢。増えるであろう学徒を養う水や食料を調達するアテもなかった。
何より東大陸には地の利というものがない。他領との間に横たわる広大な海が、あらゆる可能性の邪魔をする。
比べて、スフィーには全てがそろっていた。
広大な森を水源とする豊かな川。狭いながらも魚を肥料にして高い収量を誇る耕作地。
港と街が整うと、ウェンズミートの貴金属や、シリル特産の薬草やコカラ豆を積んだ商船が自然と集まり、スフィー・ベスタ間は最も金を生む航路となった。
だが、数十年ぶりに目にした夕日の中のスフィー港は、暗くわびしい。倉庫前に積まれた荷は少なく、人夫や船員もまばらだ。
船を見つめている無数の目は、船賃を払うのがやっとという避難民のもの。今日、出航できそうな船がないのに街へ通じる大門の下に座り込んでいる。宿に泊まる金もないということか。
居心地の悪い注視の中で城門をくぐると、ティアとドルクが鼻をおさえた。ためしに息を吸ってみると形容しがたい臭気が鼻をつく。市場で売れ残った魚の生臭さや野菜の腐臭、汚物やドブ臭さといった生活臭とは明らかに違う。
壁の内側には、夕暮れの街が広がっていた。黒い石畳と焼きレンガ。火矢や火炎呪を警戒していると思われる鉄の扉と鎧戸に守られた高い建物。集められた富を狙う欲深い者どもから、街と人を守るもう一つの壁。
昔と同じように圧倒される威容だが…空き家が妙に目立つ。修繕されないまま放置された屋根や樋《とい》。外れかけた戸とレンガがいくつか抜けた壁。
迷路のような路地をたどると、路傍からヤセ犬と共に剣呑な目を向けてくる男や、荒んだ目の子供に行き逢った。明るいうちから胸の開いたドレスで酒場に誘う酌婦は、うすい香水と垢じみた獣臭をまとわりつかせている。
視界を圧する黒い教会の前に、大門で感じた異臭の源がさらされていた。午前中、火刑に処されたと思しき死骸が6つ。足は黒い棒だが上は原型が残っていた。かろうじて性別は見分けられるが、年齢は不詳。断末魔のまま歪んで固まった顔は、正視に堪えない。
「これは、本当なのでしょうか。自ら闇の口付けを受けし淫らにして卑怯なる裏切り者を火によって浄化した、というのは」
石柱に貼られた罪人の名。その前でドルクが声をかけた老婆は、露天の古着商のようだが、商い物が少ない。
「旅の人かえ? ヨソじゃここを吸血鬼の巣のよう言うとるかも知らんが、怯えんでもええ。森を越えたもっと南の方はしらんが、その罪状はウソっぱちさね。教会が偉いところをみせようとして、密告があった家のモンを焼いて財産を没収しとるのさ」
老婆は手元の薄紅色の繻子に白レースをあしらったドレスを掲げて、シワ深い顔をゆがめた。
「あたしゃ、そのおこぼれに預かってるだけさね。この娘なんざ焼いちまうのがもったいない美人だったねぇ。連れの聖女様の普段着にどうだい?モノはイイよ」
焼く前に刑吏が脱がせた服を引き取って売っていたのか。
人の世界なれば、口付けを受けたものに庇護と特権が与えられる事はない。それは分かっているつもりだったが、あまりに無残な光景に吐き気を覚えた。転化を恐れて死後に焼くならまだしも、火刑はやりすぎだ。キニルでは施療院に収容すると言ってなかったか?
「あたしは教会に寄るけど、どうする?“食事”済ませてから宿で落ち合う?」
ティアが意地の悪い笑みを向ける。
乗客が他にいないせいで注目を浴びがちだった船内では我慢していた。そろそろ限界だが、しもべが陥るかも知れない最悪の結末を見せ付けられては、食欲など朝もやのように消え失せる。
いや、こうなりにくい相手を選べばいい。教会の上位にある者なら、特権に守られ、無残な最期を遂げる事はないハズだ。厄介なネックガードも、指を焼く覚悟さえあれば、外せないものでもない。ここの教会には、正式に招かれ、何度か入ったことがある。おそらく結界は拒まない。
「付き合おう。少し思い出にも浸りたい」
意外そうなティアに先立って、火刑台と焼け焦げた石畳をさけて、広場をまわり堀を渡る。結界らしきものがありはするが、この身を弾く力は感じない。あっさりと正門をくぐることが出来た。
「平気、なんだ」
「ここは古いから」
ドルクが寄付金と引き換えに、宿坊を1晩借りる交渉をしている間、高い丸天井を見上げ、昔のままのモザイク模様に目を細める。
だが、人は減った。広い屋内には、うらぶれた空気が漂っていた。かつての訪れが太守としての正式なものであり、教育官や学徒たちが居並んでいたのは、高貴な支援者に対する礼儀だったとしても。警備の者を含めてこの場に居る者が片手の指より少ないとは、あまりに寂しい。
スフィーは1度、捨てられた都市。世界中から金と人を集めていた黒き教会も1度捨てられた。今でも森の大陸を統括する拠点だが、空き家同然の空白期間が、熱気も本山としての矜持もほの暗い混沌も、全て奪ってしまったようだ。
「案内しましょう」
安いワラの寝具と狭い部屋に大金を支払う酔狂な旅行者を、心の中でいぶかしんでいる太った準司祭を最初の獲物と定める。教会内は安全と思っているのか、簡単に心が読める。
最終的には、法服を着た者だけが入れる上の階で狩りをするつもりだが、まずは内部事情を把握しなければ。
当たり前の様に奥の扉へと消えたティアが、目となり耳となってくれれば、ムダに口付けする必要も無いが…心話すら弾かれるのでは、まず無理か。
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