「音が聞こえる場所にいたら、ぶっ飛ばす!」
ニヤついている水夫にすごんでから、ティアは便所にこもった。海へ落ちそこねたブツが便座の内側だけでなく、床にもこびりついててスゴく臭い。赤い目をしたハエもウザい。
明日には小ウジになるはずの白いタマゴの固まりを踏みつけ、換気窓の向こう…船首像のカカトごしに見えてきた、二つの岩山に挟まれた海峡《かいきょう》をにらむ。
船を沈めた数を競ってた化けクジラと大イカが、スフィー沖で決闘して白と黒の岩山になった。なんて、おとぎ話があるらしい。
今も時々、船を沈めるだぁ?
バカバカしい。
船が沈んだのは、海流と波の下に隠れた岩のせい。それと、岩山の頂上に埋め込まれた術具が張る結界も、少しは関係してるのかもね。
森の大陸を治めていたユーリティス城主ワイドールが組み上げた見えない壁を、スフィーの教会が今も維持している。海から来る招かれざる者から森の大陸を守る防壁。普通の人は通しても、人外の者は一定の儀式をやんないと力を削られる。
つっても、境界の向こうから正式な名前を呼び、迎え入れる意思を示すだけ。つまり船首の便所にいるあたしが境界を越えた後、船尾の最下層で、淦水《ビルジ》の汲み出しを見学しているアレフを迎え入れる。
ドライリバーを越える時にもやらされたけど、ガキのごっこ遊びみたいで気恥ずかしい。本名を口に出して言わなきゃならないのも面倒の元。事情を知らない他人には聞かせたくない。
えっと、この階層は…もう近くに誰もいない。
ダナウス号の水夫たちはあたしにビビってる。ベスタ港でスタッフを振るった時、船べりから見物してたみたい。
船首楼の厨房には、足音も気配もない。台所も吐きそうなくらい臭うから無理もないか。船首の見張りは…波と風に声がまぎれて、何を言ってるか聞こえない、かもしれない。
小便臭いシミが複雑な地図を描く板カベに手をついて体を支えながら、その時を待った。波に乗り上げるたび、便座の上で腰が跳ねる。だから、床にこぼれたのか。水に当たって間に合わなかったワケじゃなくて。
やっぱ客室の便ツボの方が、揺れが少なくて落ち着けるな。ニオイもマシだし。
山の陰に入ったのか、急に暗くなった。船に迫る白い岩と黒い岩。岩に砕ける波しぶきってけっこう迫力ある。
何か布みたいなモノが背中に触れ、体の中を通り過ぎたのが分かった。防壁ってヤツを越えたらしい。
「ようこそ、森の大陸へ。アルフレッド・ウェゲナー、臆病な血の盟主」
名を呼ぶと、目の前で見えないカーテンが開き、風が吹いた気がした。でも、あまり長くは開けていられない。少しずつ閉じ始めてる感じだ。
手の紋に収めていた風の精を解き放つ。船を風でつつみ加速させる。
間に、あうかな。
結界に不死者が触れたら、多分スフィーの教会にバレる。
それとアレフは自制心ってヤツが少し弱い。削がれた力を取り戻そうと、人を見さかいなく襲うかも知れない。
いまだ人を殺せない甘ちゃんのままだし、ここは海上。バレて船倉から陽の下に引きずり出されたら、気絶して袋叩きだ。
身包み剥がされるついでにルナリングを奪われたら、焼けコゲちゃうのかな。
もう一度、口上を述べようとして足音に気付いた。今もよおしたバカがいるらしい。
「今使ってるから、ちょっと待って」
扉の向こうに声をかけながら気配をさぐる。閉じかけている実体のない壁の感覚。アレフは、船底を移動してる。暗くてもつまずかずに動けるのって便利だな。
水樽と押し固めた煙花の横で、体を横にして結界のすき間をくぐり抜けるのを感じた。
…良かった。
便座から見下ろした緑柱石色の海にむかって用を足してみる。壁に釣られた皮袋の水を手に受けて洗って出たときには、ちょっニオイに慣れていた。
「お待たせ」
肩を叩いたら、まだぬれてたみたいで手形がついた。空きッ歯の水夫がイヤそうな顔をして、ちょっと笑えた。
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