「ホセの野郎、また便所でサボってんじゃねぇだろうな」
急な風の変化で呼び集められた水夫たちが、帆を傾けるツナをたぐりながら怒鳴ってる。そんな上甲板の騒ぎに舌を出しながら、ティアは船尾の昇降口に向かった。
堅い木の板を銅で補強した扉を4回は開け閉めして、階段を上がる。
操舵輪の動きにともなう歯車のきしみとカジが切る水の音。甲板長の大声と復唱する水夫たちの声も力強い。
2つ岩を越えたら入港は早くて半日後だったかな。結界を越えるまで左手の紋に閉じ込めてた風精が、やたら張り切ってダナウス号を押してる。昼過ぎには揺れない地面を踏んでるかもしれない。
船室に戻ったら、窓際の長イスにドルクとアレフもがいた。元は1人だか2人用の部屋だってのに、寝台が3つもブラ下がってるせいで頭うちそう。でも、この危なっかしい部屋とも、今日でオサラバだ。
「お疲れ様でした」
ねぎらいの言葉と一緒に、割ったアーモンドが出てきた。
「忘れてたけど、ドルクは結界とか平気?」
キニルではアレフと一緒にヘバってた気がする。
「人の姿なれば。元々わたくしはこちらの出ですし」
「ワイドールが獣人を作ったんだっけ」
「教会が使う通信文を運ぶ白い鳥も、ワイドール様が作られたハズですよ。ハトを元にして」
昔は教会と吸血鬼が仲良しだったってのが、あたしには理解できない。
そっか、ドルクたち人外の衛士も“しゃべる贈り物”ってやつか。地縁も血縁もない他領の獣人なら、領民に酷な仕打ちもできるし、主の悪行をバラす事もあんまりないから。
けど今は、生きた人間が進物品あつかいされてた頃の話なんかしても意味がない。それより
「ね、スフィーってどんなとこ? 昔は教会の総本山があって、城壁にかこまれてて、カタ苦しい街だって聞いてたけど」
「魚料理とシカ料理。お茶と果物がおいしい街でございますよ。黒い教会が街の真ん中に居座っていて、すこし邪魔ではございましたが…」
口ごもったドルクが探るようにアレフを見る。
「大遷座かぁ」
ファラ打倒がテンプルの…英雄モルの武勇伝なら、こっちは教会側の手柄話し。メンター師や太っちょのマルラウが若いころにやった、総本山の移行。
「地下のカネ倉に積まれた袋の中身を少しずつ石ころに入れ変えて、人も帳簿も手形の控えも半年ごしで船で運んで…。
ファラが滅んだ翌日、ワイドールの手勢が踏み込んだら総本山は空っぽ。休会日だから生徒も代理教官もいなくて、千人が手ぶらでトボトボ帰ったんだよね」
教会にとっては痛快な脱出劇でも、逃げられた方は牙が折れ砕けるぐらい悔しかったろうな。
教会の幹部連中と大金が、報復と没収を恐れて海を漂っている間に、セントアイランドとキニルをおさえた英雄モルはオリシアを滅ぼしてウェンズミートも落とした。ついでに教宣ビラで手柄を広く知らせて、覆《くつがえ》しようのない名声と、人々からの信頼を手に入れてた。
「木陰や空き家で教室を開いていた、教会の開祖と弟子たちが、初めて得た安住の地がスフィーのはず。教会基部に当時の壁が一部残され、土地と建築資金を寄付したワイドール様のお名前が刻まれておりました。
その恩をアダで返す、ひどい裏切りでございますよ」
「ファラ様を滅ぼしセントアイランド城を占拠したのは、過激な若者が作った秘密結社テンプルの暴走だと、当時の教会は言い張っていたようだが」
恋人が灰になって、フテ寝してたはずなのに良く知ってんな。アレフの手元には光がまたたく水晶。そっか、シーナンとオートマタ達が残した記録を読んでるのか。
「そんな嘘、よく通ったもんよね」
「テンプルの者が父を滅ぼしても、バフルをはじめとする東大陸の教会が無くならなかったのと、おそらく同じ理由だろう。既に人の暮らしは為替がなくては立ち行かなくなっていた。少なくとも商人や太守は。今も助けを借りている」
船賃も金貨や銀貨じゃなく、紙切れで払ってた。この先は教会そのものが危ういかも知れないから、いくらか宝石や銀に替えたみたいだけど。
「太守の家紋を刻印した金貨の量より遥かに大きな金が、教会が保証する手形や為替として出回り、信用されるようになっていた。もう勝負は決まっていたのかも知れない」
歪んだ笑み。アレフが嬉しそうなのは何でかな。
「いずれ滅ぼすべき魔物との取り引きは全て破棄。
教会からの一方的な通告で、ワイドールは数千年にわたる蓄財の全てを奪われた。それに比べれば、ウェゲナー家が失った預金はわずかなものだ。
むしろ、千年かかっても返せそうにない借財が破棄されて、助かったくらいだ」
なるほど、ドサクサに紛れて借金を踏み倒したんだ。実際に踏み倒したのはオヤジさんだろうけど。
夜明け前の東大陸は貧乏だったから、借金のカタに取れるモノなんてロクに無かったハズ。信用貸しだと思うけど…いくらぐらい借りてたのかな。
もっとも、返済期限が千年を越える借金なんて、額を聞いてもピンと来ないだろうな、絶対。
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