「おとう様の大切な方?」
「そうだ。そそうの無いようにな」
常夏の地では午睡の時間。静まり返った館の一角で、アレフは廊下でのやりとりに耳を傾けていた。
オーネスに託されたロウ引きの封筒。それを伝に入り込んだ地主の白い屋敷。客間で相対した当主を視線で縛り、強引に血の絆を結んだ。その時、心を占める飢えを読まれてしまった。
ウォータではたらふく飲んでいた。だが、水上で昼光にさらされ、嵐を乗りきるために風を弱め、同行者の体力回復のついでに、歯根まで侵していた虫歯も治した。
少し力を使いすぎた。
ここを辞去したら、真昼の眠りにつく町で適当な獲物を探すつもりでいた。強い日差しは人から理性と気力を奪う。暑さにうだされて見る極彩色の夢。そこに黒い悪夢も紛れこめるはず。
しかし、手ずから鎧戸を閉める白髪混じりの当主に引き止められた。
「あなた様の喜びは私どもの喜びです」
最上の贄を捧げたい。そう申し出る口元に浮かぶ浅ましい笑み。不愉快なものを見てしまう予感はしていた。だが、強すぎる日差しと渇きが、辞退の口実を押し込める。数瞬まよってから口にしたのは感謝と期待。
陽光と共に風も締め出した客間は蒸し暑い。白い袖なしドレスに、薄い日除けを羽織った娘は戸惑ったように一礼した。
「グラースの娘、リファでございます」
亡き妻の連れ子とはいえ、娘を贄として差し出すとは。所望しておきながら、なぜか裏切られた気分だった。
無上の喜びを娘にも経験させてやって欲しいという願い。父性愛に別の色が混ざりこんでいる気がした。だがこれ以上、血のつながらない娘への感情を追求するのは、はしたないというものだろう。
「こちらこそ、お見知りおきを」
透かし彫りの椅子から立ち上がりながら、切れ長の目をとらえた。長椅子に呼ばれたなら逃げ出すつもりでいるリファを、偽りの恋にいざなう。
多少大げさに古風な礼をしてみせた。雰囲気に流されたように差し出された右手の甲に軽く唇をつける。温かく小さな手を裏に反し、手首に牙を立てた。
驚きと痛みで反射的に引かれようとする手首を、強く掴む。上目遣いにリファを見つめ、あらためて魅了しなおす。痛みを忘れ頬を染めるのを見取ってから、動脈を食い破った。
貰いすぎないよう、唇の色をうかがいながら、溢れる命を楽しむ。
治癒呪をかけ、リファが厭《いと》っていた長椅子に寝かしつけた。幸福そうな寝顔を満たされた気分で眺める。陽が高いうちは身も心も重い。まどろみに浮かぶ夢のかけらは暗く赤い。絶えず誰かの声が聞こえる。
いや、これはドルクからの心話か。舟頭からの使いに呼び出されて、今は安宿の一室。
(黒髪の司祭と剣士、そして恐らくもう1人が紅鶴亭に)
(ティアは)
(駅馬車の手配に向かわせました。夕方の便で立ちます。アレフ様は直接駅へ)
「オレはあいつらに、魔法が使えるって事は言わんかったからな。歯を治してくれた礼だ」
舟頭の落ち着かない視線。決まりが悪そうな口調。金をつかまされたか。だが、こちらにも知らせてくれた。
礼を兼ねて口止め料をはずむようドルクに命じる。
「いらねえよ。湖の渡し賃はもう貰ってる。嵐を読み違えて巻き込んじまったのに、あんたらのお陰で命拾いしたんだ。こっちが礼金を払いたいぐらいだ」
照れたような舟頭の顔を最後に、心を引き戻す。
暗い客間でフードを目深にかぶり、陽光の下へ出る覚悟を決めた。
馬車を用意するという、グラースの申し出を断る。しもべとなった親子の安全を考えれば、関係を周りに悟られるような事はなるべくさけたい。
傾き始めた陽を反映し、足元に引く幻の影は少し長い。
午睡から覚めた賑やかな町を抜け、かげろう揺らめく駅にたどり着いた。乗客たちの喧騒にほっと息をつき、ドルクとティアの居場所を感じ取る。
嫌な予感がした。宿ではなく駅で待ち伏せされているとしたら…。
心を覗けぬ者が、ティア以外に幾人か存在するような気がする。特定しようと駅を見渡した時、脳裏にバフルヒルズ城の惨状がよぎった。
もし、ここで禁呪を使われたら。
いや、単なる火炎呪でも効果範囲が広ければ、駅にいる数十人を巻き込む事になる。
身をひるがえした瞬間、足元に輝きが走った。
駅全体を包む方陣。
慌てて跳び離れた直後、ホーリーシンボルの眩《まばゆ》い光が視界をおおった。
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