明り取り窓だけでなく、ハンスは台所の煙出しまで開けた。新鮮な朝の光と風が、魚油の生臭さと夜気を払う。
座学を怠けていた若いころの自分を呪いながら、すりへった指貫を外して爪の色を確かめ、ミリアの脈を診た。爪が白く反り脈が弱い時は危ないと学んだ気がする。
「…母ちゃんは?」
「今は眠っている。大丈夫、すぐに気がつく」
爪はうす紅色で脈も力強く思えた。下まぶたやベロの色を確かめるのは止めておこう。それよりニッキィを手当しなくては。
母親を心配して覗き込んでいたニッキィを、イスに座らせた。
「また来たんだ、あいつが」
「えらかったな、母さんを守るために戦ったんだな」
目を閉じ首を振るニッキィの、裂けて血で汚れたシャツをめくった。血は乾きかけていて…傷が見当たらない。
「痛むか?」
問いかけるとニッキィも首をかしげた
「今、痛くない」
そろそろと脱がせたシャツに、台所の大ツボの水を振りかけて薄い胸を拭う。日に焼けた健康な肌が現れた。
からかわれたのだろうか。
魚の血を、ハサミで切った服につけての悪ふざけとか。
だが、母ひとり子ひとりの余裕のない暮らしだ。冗談で服を台無しにするとは考えられない。
「痛かったのに、息も出来ないくらい痛くて」
不信に思われているのを感じたか、ニッキィがハンスの腕を掴んだ。
「目を開けたら真っ暗で、母ちゃんの叫び声がした。光が戻って…“あいつ”の黒いマントが目の前をおおってたんだ。僕からはなれた “あいつ”は母ちゃんの血を…」
「もう話さなくていい」
苦しそうなニッキィの言葉をさえぎった。だがわずかな沈黙のあと言葉は続いた。
「母ちゃんを寝かして、ボクを怖い顔でにらんでた。殺されるって思った。魔法をかけられて胸がすごく痛んで…そっか、傷を治したんだ。母ちゃんが血と引き換えに頼んでくれたんだ。守るはずだったのに助けられるなんて。悔しいよ」
敗北も後悔もまっすぐ語るニッキィ。自分が11歳の時どうだったか考えると、恥ずかしくなる。
後ろの寝台からかすかな声がした。
ハンスとニッキィが見つめる前で身を起こしたミリアは、微笑んだ。
「いらしてたんですねハンスさん、私ったらまた居眠りを」
首に手を当てた後、笑みがぎこちないものに変わる。
「朝食をご馳走するお約束でしたよね」
立ち上がったが、ふらついた。ハンスは手にしたシャツを捨てて支えた。
「寝ててください。オレが作ります。あいつには、もう手を出させません」
ミリアの目が見開かれる。
「遅刻してすまない。ニッキィを危ない目に遭わせてしまった」
あんなところで酒呑み勝負に誘われなければ間に合ったかも知れない。
そうか、あの男は手下か。
“あいつ”が食事をしている間、ニッキィの家へ向かおうとする者をさりげなく引き留めていたんだ。
「今日から実家か知り合いの家に泊まって下さい。なんならオレの部屋でもいい。家にいなければ諦めるハズだ」
「ご迷惑は…おかけできません」
きっぱりとした口調だった。
「大丈夫です。私は大丈夫。甘えさせていただけるなら、ニッキィを泊めてやってください」
ヴァンパイアの口づけは快楽を伴うという話を思い出した。ミリアの身も心もヤツに奪われたというのか。気丈に朝食の支度をする後ろ姿を見ているうちに、悔しさと怒りがふくれあがった。
よこしまな呪縛から解き放つ方法はひとつ。悪の根源を打ち滅ぼすこと。
教会に浄化の術を使える者はいるだろうか。1度も出入りしたことがないから、まず信じてもらえるかどうかが問題だ。
いや、俺1人でもやってやる。ヤツの昼間の隠れ家を探し出して胸を貫き首を落とす。腰の剣に施されている破邪の紋が、サビに食われてなければいいのだが。
ただし、ミリアに気付かれてはならない。ヤツと心が繋がっている。
全ては、ミリアが作ってる朝メシを食って、おだやかにここを出てからだ。
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