ハンスは数年ぶりに朝日を見た。赤土の道を踏みしめ長い影を引き、ニッキィの家へまっすぐ向かう。
青光りするハエが目の前を飛ぶ。水面を渡る風に鮮やかな緑がうねる。草原と見間違えそうだが正体は浮き草。その実を茹でてカラを剥き、すり潰して発酵させたトラッパ酒は口当たりの良いにごり酒。蒸留すればカルカ酒だ。杯を重ねればたちまち足に来る。
だが、今日は一滴も飲んでない。普段なら寝床でツブれている明け方に起き出し、一番マトモな服を着た。髭もあたり花を持っていこうかと思ってやめた。今日は逢引ではなく“護衛”に行くのだ。
お節介焼きのオバさんが道端で見かけない中年の男と話している。服装からすると旅人だ。腰にたばさんだ斧は物々しいが、物騒な雰囲気はない。陽気にあいづちを打ちながら、こっちに笑顔を向けている。
「あの方はずいぶん立派な剣を差していますね」
「おやノンべのハンスじゃないか、こんな時間に出てくるなんて珍しいねぇ」
「今日は飲んでねぇよ」
「しゃんと服きて剣を差してると、ホレちまいそうだよ」
お世辞だとは分かっていても顔がゆるむ。
「酒でダメになっちまったけど、この人はテンプルの剣士だったんだよ」
「凄いですね。1度お手合わせ願いたいですな」
男の目が細くなる。笑って肩をすくめてみせた。男の太い腕を見るまでもない。打ち合ったら3合ともたずに負けちまう。
「とんでもない。オレなんざ」
首を振ると、男は茶目っ気たっぷりにカルカ酒の小杯を口に持っていく仕種をした。
「こっちのほうでひと勝負」
「そりゃあ、いい」
思わず足が止まった。
「まったく、あんたときたら。
ハンスは底無しだよ。お互いの体のためにやめときなさいよ」
「残念だなあ」
オバさんに止められて本気で残念がっている様子の男に、ハンスは片目をつぶってささやいた。
「朝はちょいと用事があってね。あとで酒場で会えたらひと勝負」
「昼まっから飲むのもなんですしね。夕方にでも…奢りますよ」
奢ると言われて顔がゆるむ。しばらく立ち止まって詳細に場所と時間を打ち合わせた。ニッキィと約束した朝食の時間に少し遅れたかも知れない。
2人に手を振って歩き出した時、さわやかな朝の景色に異分子が混ざっているのに気付いた。黒いマントを羽織った青年が歩いてくる。
なるほど、こいつか。色の薄い髪が日の光に映えている。白い顔は滑らかで唇は不機嫌そうに結ばれていた。邪魔者が居たんで思いが果たせなかったんだろう。
ざまあみやがれ。
これからあんたが抱きそこねた女が作った朝メシを食うんだ。本当の夫や父親みたいに同じテーブルについてな。
すれ違ったとき夜を感じた。まわりは朝だというのに冷んやりとした暗い空気が顔をなでる。その中にただよう匂いに眉をひそめた。知っているのに思い出せない。ニッキィの家の前に立ってる木の下まで来た。
あれは血の匂いだ。
振り返ると、青年ははるか遠く、先程飲み比べの約束をした男の側まで歩み去っていた。男はオバちゃんに手を振り、青年の後に従うように去ろうとしている。
まさか…今は朝だ。この大陸にヴァンパイアはいないハズ。
嫌な汗が手をぬらす。あいつを追うべきか。
元気な笑顔と、愁いを隠したほほえみがよぎった。
母ちゃんを守るんだと木刀を振っていたニッキィ。女たらしの軟弱な若造なら追い払えるだろう。むしろやり過ぎて相手に取り返しのつかないケガをさせないか心配なくらいだ。でも、もし“本物”だったら?
ハンスはわずか3歩の距離を走ってニッキィの家に飛び込んだ。
そうあってくれと願った、あたたかいテーブルは無かった。窓は締め切られ、薄暗い台所には火の気がない。死んだように眠っているミリア。壁際にうずくまってすすり泣いているニッキィ。
「ニッキィ」
ハンスは震える肩に手をゆすった。上げた顔は涙にまみれ、上着の胸は血に染まっていた。鋭い刃物で裂かれた破れが2本、ななめに走り、右手には両断された木刀の残骸が握り締められていた。
生きていた。
心底ほっとした。同時に信じてやらなかった自分の愚かさに腹が立った。もし“本物”だと分かっていたら戦えとは言わなかった。吸血鬼が諦めるまで母親を連れて身を隠せと忠告した。
寝台のミリアも青ざめているが呼吸は落ち着いていた。術にかかって眠っているのだろう。そしてノドには“あいつ”の食事の後が残っていた。
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