「オジちゃん!」
ジミーがうれしそうに叫んで起き上がろうとする。それを母親が制止した。
「心配したんだぞ、ジミー。元気になったらまた、遊ぼうな」
ドルクはほっとして顔をほころばせた。そして急ごしらえの小さな吊り寝台の横にヒザまづく。
「でも、今度は日カゲにかくれてくれよ。でないとオジちゃん、またビックリしちゃうからな」
ジミーは大きくうなづいた。
「さあさあ、そのためにも今日はきちんと寝なくてはね」
母親に寝かしつけられながら、小さな歯を見せて笑う顔を見ていると、昨日この子を殺してもいいと思えたのが不思議になる。アレフ様を守るためなら何時でも人を手に掛ける覚悟はしているが、年端も行かない子供は無条件に可愛い。
人には聞こえない微かなつぶやきを耳が捕える。ジミーが大あくびをして目を閉じた。そのまま気持ち良さそうな寝息をたて始める。
「あら、もう」
あどけない寝顔に母親は微笑みジミーの側を離れた。さっきの小さな声が眠りをもたらす呪文であることにドルクは気づいた。
振り返ると、レースとギャザーに彩られた細い肩に、背後から青白い手がかかっていた。他人の、若い男に触れられても彼女の目には拒否も警戒もない。ぼんやりとした表情を宙に向けている。術に落ちている、そう直感して主を見上げた。
面白がっているような灰色の眼が見返していた。そのまま抱きすくめ、止める閑も無いほど素早く、何のためらいもなく首筋に牙を突き立てる。まさか、という思いからドルクは惚けたようにその光景を見ていた。
積極的に人を襲うアレフ様など想像した事もなかった。ドルクが全てを用意して行う“食事”は日常だったが、今目の前で起きているのは非日常。
切なげな吐息をもらし黒衣の青年に身を預け、目を閉じてゆく滑らかな額に巻き毛が一すじ落ちる。ドルクにはその口づけがひどく長く感じられた。
血の気を失った夫人は、主の手で彫刻と錦に彩られた吊り寝台に横たえられた。年代がかった木製の吊り寝台は棺に似て、不吉な連想がドルクの頭に入り込む。
思わず脈を確かめた。意外とシッカリしている。普通に眠っているとも見えるが…治癒呪をかけても傷跡は完全には消えず、赤い小さな痕は残る。
「やっと落ち着いた。ジェームズの時は味見みたいなものだったから」
満足そうな笑みを浮かべて主が廊下に向かう。
「長居は無用だ。そろそろ戻ろう。大ごとにはならない。看病疲れ…疑うとしても伝染病の可能性に気を取られる」
往きしより力強く感じる足取りを追いながら、これは本当に長年仕えてきた主なのかとという疑念にドルクは捕われた。外見は変わらない。だが…心が変化している。その変化をもたらした者は一人だけ。
しかし大層な皮肉だ。ティアは本来ヴァンパイアを倒し、あるいはその勢力を封じ込め、人をその魔手から守るテンプルの者だ。その彼女のせいで、争いを嫌うアレフ様は闘う術を身に付けはじめ、いくぶん攻撃的になってきている。そして今日、一人の女性が毒牙にかかった。
「明日も“狩り”をなさるんですか?」
船室に戻る直前ドルクは囁いた。主がふり返らずに呟く。
「あさって…かな」
明るい廊下にいると窓を閉じた船室は闇に見える。
「少し散歩してきます」
寝台に腰を下ろし手帳を広げる気配に向かってドルクは一礼し、扉を閉めた。
次は誰を襲うつもりなのか。ドルクの胸を不安が満たす。頭の出来はいいハズだが、秀でた知は主に研究に費やされ実生活に関してはむしろ幼い程だった。しかし急速に成長している。今日の手際はそう悪くない。
だがティアにバレたらただではすむまい。それが最大の懸念だ。
陽光の下で、ジミーの父親と共にロープの結び方を学んでいる聖女見習いを見て、ドルクは大きくため息をついた。
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