かぐわしいバターは出航してすぐ姿を消した。牛脂のニオイは横帆が西風を捕まえた頃には消えうせた。豚あぶらはわりとがんばっていたが、行く手に中央大陸が見えた頃に無くなった。上陸前夜の晩餐に漂うのは果実油の青臭さ。
料理にパン、菓子からも漂う青臭い匂いを、グレッグは嫌いではない。一足早く届いた陸の緑の匂いだ。あと少しで揺れない地面を踏めると思えば胸が高鳴る。もっとも、しばらく陸にいると、今度は傾いだ甲板が懐かしくなるんだから、海の男ってな勝手なもんだ。
テーブルにのぼってる果物は干ブドウともっさりしたリンゴ。だが厚焼きのビスケットに焼き込まれてたり、塩漬け肉と一緒に煮込んであればご馳走だ。酢に浸さにゃ歯が立たない石チーズも細かく削られ、海水で茹でたイモに振り掛けてあれば鼻歌が出る。
新鮮といえる食材は今朝ツブした鶏どもぐらいだ。刻んだタマネギやパン屑ともども塩漬けのブドウ葉に巻いて煮込んで積み上げてある。連中が最後に生んだ玉子は甘くて黄色い焼き菓子に変わって、今回は参加を許されたジミー坊やの前で山盛りになっとる。
明日の朝、粥にする押しムギとコカラに入れるハチミツをのぞいた食材のほとんどがこの晩餐で使い果たされる。カビた麻袋や虫がわいた樽に手をつけなくとも、全員が腹いっぱいに食えるってのは珍しい。順風に恵まれたお陰。客と水夫の日ごろの行いに感謝だ。
白と赤の樽ワインもそれぞれの杯に注ぎ終わった。湯で割ったハチミツの杯が小さな手にしっかり握られたのを見て、グレッグ船長はうなづいた。
それでは、乾杯のあいさつと行くか。
「みなさんもご存知の通り、グースエッグ号が明日入るキングポートはドライリバーの河口にある。上流の方は地平線まで広がる麦畑をうるおし、ところどころ水ナシ川になっとるが、中流じゃ川岸の馬に引かれてハシケが行き来しとる。下流は広くて緩くて、河口はもう海と変わらん。それでも流れが無いわけじゃあない」
「船が港に着くためにゃ、午前中の海風を捕まえ上げ潮に乗り、港の近くまで一気に寄らにゃならん。朝から騒がしくてビックリされるかもしれん。だが、最後は川べりの馬どもが回す巨大な滑車の綱に引かれて、貴婦人のごとく入港だ」
「桟橋を踏めば中央大陸、旅券あらためだの上陸手続きだのといった、わずらわしいモンは一切無い。みなさんは晴れて自由の民だ。ただし、財布には十分気をつけて、奥さんやお子さんの手は絶対に離さんように」
とりあえず、客がしらふの内に忠告は済ませた。明日から頼めるものは己の力のみ。助けてくれるのは今隣に居る家族だけだ。
「それでは、新天地での皆さんの無事と幸運を祈って、乾杯」
『乾杯!』
にぎやかに始まった晩餐だが、お客の中には塩漬け肉の熟成しすぎた臭いや、ビスケットに混ざる干しブドウ以外の黒粒に気づいて、食が進まない者もいる。ジェフが使う年季の入ったフルイは目が粗い。粉や麦に湧いた子虫を取りきれん。別に毒ってわけじゃないのに、つまんで取ったあげくに手布で口を押さえて上甲板へ走るってのは、さすがに繊細すぎるだろう。
いつも食ってるムギ粥にも混ざっとったはずだが、薄暗い船室に運ばせてたから気づかなかったか。仕方ない。今夜は月もきれいだ。岸に瞬く街の灯を見ながら、最後まで船に馴染めなかった神経質すぎる若いのに付き合ってやろう。思えばちゃんと話してないのはあの男ぐらいだ。
偉そうにしていた商人は先月騙され財産を半分失ったせいで、人を寄せぬ芝居をしていただけだった。大酒飲みは性質のいい酔い方でまったく面倒かけんかったし、年増の浮れ女《うかれめ》も争いのタネを蒔かんよう心を込めて一晩説得したらわかってくれた。ナイフ男は…まぁ、独特の哲学をやめろとはいえん、実行にさえ移さなければ。
月光が降り注ぐ上甲板は、船尾ランタンを無用に思うほど明るかった。帆を畳んだマストを仰いで毛布に包まってる見張りに軽く手を振ってみた。振り返さんところを見ると居眠りか。まぁ、月夜に停泊しとる船に突っ込んでくるバカはそうおらんだろう。
さて、吐きに行ったなら風下、左舷か。
見当をつけたあたりで船端に張った転落防止の綱の上で手をつかね、夜風に色の薄い髪をなぶらせている優男を見つけた。
グレッグに気づいた優男が、幽霊でもみたようにひどく慌てているのが滑稽だ。安心させてやろうと、話しかけようとしても
なぜだ。
舌が動かない。
目の前に危険がせまっている。突然そんな気分に襲われた。
春先の海で、思わぬはぐれ氷の群れに突っ込んだ時のような…だんだん厚さと硬さを増す青白い氷が船体を囲み締め上げてくる…そんな逃げ出したいのに思うに任せない焦りで、嫌な汗がじっとり背をぬらす。
だが、船と乗ってる者の命運を預かり、幾つもの嵐を乗り越えてきた海の男が、ビスケットに焼きこまれた子虫を怖がる情けない若僧を恐れて立ちすくんでるだなんて誰が信じる。向こうだって怯えた顔でこっちを見とるというのに。
変といえば月の光を浴びとるはずなのに足元に影が…。
「船長さん、そんなツマンナイ奴ほっといて一緒に飲も!」
腕を引かれて振り向くと、見習い聖女が緑色のボトルを掲げていた。
「ティアちゃんの誘いじゃ断れないな。あんたも一杯どうだい」
さっきまで出なかった誘いの言葉が今はするりと出た。だが返事は弱々しい愛想笑いか。首を横に振ったせいでまた吐き気を催したらしく、海に向かってむせている。握り締めたレースの手布がいかにも軟弱だ。
全くバカバカしい。いま見直したら足元にちゃんと影はある。それにこいつは昼間も危なっかしい足取りで散歩しとった。大体テンプルの聖女の連れが吸血鬼であるはずがない。たぶん光の加減か、飲みすぎだ。
もういい、今夜は楽しもう。明日で航海は終わる。半月のあいだ運命を共にしていた乗客たちともお別れだ。再び会うことはないだろうから。
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