「つっかまっえた!」
小さな気配が走ってきてドルクの腰にぶつかった。振り返ると紅潮した顔が見上げていた。
「ジミー坊やかぁ」
ドルクは満面の笑顔をたたえて小さな体を抱き上げた。この船に乗っているたった1人の子供。ワキをくすぐるとジミーは高い声を上げて身をくねらせる。
「かくれんぼするか?」
「うん」
顔を上げれば両親が笑ってこっちを見下ろしている。
「さっき捕まったから、今度はオジさんが鬼だな」
ジミーを下ろすと、ドルクはしゃがみこんで数をかぞえはじめた。ジミーがすばしっこく走り去る気配がする。振り向いたドルクが、隠れている前をわざと素通りしてみせると、押し殺したクスクス笑いがした。
「お、いたぁ」
前方の帆柱の下、垂れたロープの束をかきわけると、船首の方へ這っていくジミーの足が見えた。走って逃げるジミーを、ドルクは空振りを何度もしてから抱き上げた。
「じゃあ、次はジミーが鬼だぞ」
ジミーは3まで数えるとすぐに7へ飛ぶ。その間にドルクは風上側のボートの陰に身を隠した。もちろん背中が見えるように。ジミーが歓声と共にのしかかってくる。
「おー、見つかっちゃったか」
ドルクはジミーを背負いながら、くるくるとあたりを見回した。
母親はいい子守役がついたと、安心しておしゃべりを再開した。父親は操舵室から出て来た船長に帆の事を尋ね、ホラ交じりの武勇伝を聞かされている。見張りは前方を見つめ、他の船員や乗客も、風下でサイコロや他愛の無い手柄話に興じている。
「ジミー、隠れんぼや鬼ごっこより、もっと面白い事しようか」
「面白い事ってなにー」
ジミーが目を輝かせる。
「誘拐ごっこ」
ドルクは小さな耳にささやいて、片目をつぶってみせた。
「どんなの、どんなの」
迷いを押し殺してドルクは赤いスカーフを取り出した。
「まずね、こうするんだ」
ドルクはジミーに赤いスカーフで猿ぐつわをした。
「でね、そしてこの中に隠れるんだ」
さっき台所で貰ってきた、甘い香りがする麻袋を示すと、ジミーは興味深くその中をのぞいてからうなづいて飛び込んだ。
「しばらくじーっとしてるんだよ。とっても楽しいところへ連れていってあげるからね」
袋の口をロープでくくったドルクは、身をひるがえして目立つ場所にしゃがみ込み、大きな声で10数えた。高鳴る胸は8を数える頃に納まった。
「ジミー、どこだ どこだ?」
探すふりをしながら人の動きを見計らい、ジミーを入れたコカラの麻袋を肩に担ぎ上げる。わずかに呻き声がした。
「静かにしているんだよ。これから面白くなるからね」
そう袋にささやき、後部の昇降口を足音を忍ばせて下りる。
床から天井へ突き立つ舵柄を横目に、食料が詰ったタルと麻袋の横を抜け、人が居ない瞬間に廊下に出た。
食堂から響く笑い声に冷や汗をかく。豊満な背を向けているご婦人と、バラ色のスカートを覗き込んでいる水夫に気づかれぬよう、素早く船室に戻った。
寝台から身を起こした主が眉をひそめる。ドルクはかまわず麻袋を床に下ろし、膝まずいて袋の口を開いた。
好奇心に目を輝かせたジミーが暗い部屋を見回す。
「子供は時々海に落ちます」
主が浮かべた嫌悪の表情にひるんだ。しかし神に供犠を捧げる太古の祭司のように、敬虔な念をもって小さな体を主の方へ押しやった。
「量は少なくとも…飲み尽くせばキングポートまでしのげます。あの夫婦は若い。また子どもを授かるでしょう。たぶん悲しみも癒えます」
ジミーが退屈そうに首を振り、口をふさぐスカーフを取ろうともがきだす。
ドルクは幼子の細い首に手を添えた。主が逃がせと言ったら折るために。その覚悟を示すために。
鏡を外しておいて良かった。自らの顔を見て正気を取り戻したが最後、このような所業、なし遂げる事は出来ない。
緊迫した薄闇の中で、ジミーがむずかりはじめた。
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