人にとっては暗い船室。だがマユ状の吊り寝台に横たわり、マントと備え付けの毛布に包まったまま、日のあるうちは身じろぎもしない若者には明るすぎる。ドルクは板のすき間から広がる光条を恨んだ。
直射日光は防いでも、甲板の格子蓋を介して廊下を満たし扉からもれ入る昼光は、ルナリングで無効化しなければやはり危険だ。無効化の結界は主の力を削り続ける。さらには船を取り巻く海水が闇の生命を浄化……いや、蝕んでいく。
出港のあとしばらくは、夜中にそっと上甲板に上がり鍛錬のまね事などなさっていた。だが今は、疑いを招かぬための短い散歩もいとわれる様になった。
船室に引きこもり食堂に姿を現さないのも仕方ない。そう周囲を納得させるため装った船酔い。もはや誰も仮病とは見抜けないだろう。アレフ様は日々衰弱してゆく。それも予想より早く。
この航路、テンプルが召喚した魔物や海賊とは無縁だ。多量の力を使うような事態がなければ“食事”は不要と踏んでいた。たかが半月の船旅と侮っていた。いざとなれば風を従わせ、船は最速で目的地につくはずと。
乗船時はアレフ様の顔を見知った者がいない事に安堵した。しかし今は悔やまれる。
権威や力に恐れをなして従う者。命まではとられない事を知っていて、死に者狂いの抵抗を試みない者。事情を話せば“食事”の提供者となてくれる者が、この船にはいない。
かろうじて条件を満たしうるのはドルクか…同行者のティアだけだ。
アレフ様が頼めば不承不承でもティアは喉を差し出すだろう。もともと血を吸われる覚悟で彼女はついてきた。しかし、たとえそうしなければ滅びるという所まで追い詰められても、彼女の血だけはアレフ様は飲まれない。
そうドルクは確信していた。それは暗い命の共有がもたらす直感だ。
かつてアレフ様が愛した人間の娘、ネリィにティアはあまりにも似すぎている。容姿ではない。雰囲気というか魂のありようだ。
いやむしろ…永遠の命を拒否し、いつまでも変わらぬ我が子に見取られながら逝った、気丈な御母上にか。
ドルクは大きく息を吐くと、下腹に力を入れて立ち上がった。
「あのお若い方、まだ何も食べられないの?」
気の毒そうな物言いに、わずかな優越感が潜む。出航して2日目に船酔いから回復したイメル婆さんか。確か死ぬ前に故郷を見ておきたいと言っていた。
「ええ…飲物は少し入るんですが、すぐに吐いてしまって」
「滋養のあるスープか何か飲ませてあげないとねえ」
若い頃に移民として海を渡り、10人の孫を成した老婆に笑顔を向け、ドルクは上甲板へ上がった。
狭い船だ。27人の乗客と乗り組み員31人は、すぐに顔見知りになる。ドルクは親切と愛想で、ほぼ全員から好意と信頼を得た。ティアはすぐに顔を覚えられ、おそらく好悪は半々。アレフ様は青白い顔で昼間上甲板に出たとき、無関心と同情とを手に入れられた。
男たちは華奢な体に優越感を覚えたあとは無視した。細い腕が秘める力に気づいた者はいない。女たちは儚げな風情に目を止めたが気遣う言葉をかけた後、すぐに互いのおしゃべりに戻った。出歩く時間が短いせいか、近づく者もまずいない。
昼間、陽光の元でアレフ様は実際に辛い思いをしている。夜の、力に溢れた真の姿を人々は知らない。そこにいるだけで場を支配し素性を知る者も知らない者も魅きつける。術を使わなくても蛾が灯火に飛び込むようにその身を差し出す者がいるぐらいだ。
「滋養のあるものか…」
水も酒も口にはしていない主の事を思う。本来の力を取り戻すはずの夜でもアレフ様は寝台をはなれる事はなくなった。
船尾の高い甲板で若夫婦とティアがにぎやかにおしゃべりをしている。あの娘は恐ろしく元気だ。アレフ様の生気を食っているのではないかと疑いたくなる程に。ドルクはティアに手を振った。彼女はダメだ。
「分かっているさ、イメル婆さん…」
滋養のあるもの、それはアレフ様にとっては一つしかない。危険でもやるしかない。
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