「リチャード・ウェルトン様、そのイトコのティア・ウェルトン様、そしてドルク・デルイナン様…ご予約いただいたとおり一等船室を2つ確保してございます。お確かめください」
カウンターに並んだ三枚の乗船券の日付と名義を確かめたドルクは、手形を差し出した。
金額の次に受付係が指でなぞったのは、アレフ様が振出人欄に書かれた偽名のサインではなく、名宛人欄に押されたバフル教会の印。生まれたてのウェルトン商会には実績どころか実体もない。だが、金貨10袋以上を教会に預けさえすれば、紙切れ一枚で小さな家1軒ぐらいなら買えてしまう。為手というのは魔法や自動人形以上に不思議なカラクリだ。
数枚の荷札と乗船券を入れた皮の書類挟みを受け取り、波止場前の事務所を出る。輝く水平線を背景に、グースエッグ号がマストから下がる索具を静かに揺らしていた。人足たちが水樽の積み込みにかかっている。天候が大きく崩れない限り、出航は明日の午後だ。
薄緑色の船首では、腕を翼に変じた女性像が軽く口を開き潮風の彼方を見つめている。彼女の妙なる歌声が血臭にむせて止まる事があってはならない。その為に、必要な旅支度があとひとつ残っている。
主の気配を探れば、市場の方で人いきれと陽光に参っている様子がかすかに感じられた。魚の匂いと喧騒に満ちた広場へ早足で向かう。売り手の威勢のいい呼び込みと、したたかな買い手の値切る声が、レンガの壁と石畳の間で混ざり合いドルクを包み込んだ。
頭からかぶった赤茶色の外套で法衣を隠したティアは、虹色に輝く貝柄の刀子ひとそろいを半額にしようと粘っているらしい。だが、財布を握っている連れの服装が上物すぎる。貝細工屋の老婆は値札から銅貨1枚たりとも負ける気は無さそうだ。
あの2人が周りの者にどう見えるのか考えながら、ドルクはしばらく眺めていた。若夫婦や恋人と見るには距離を感じる。兄妹にしては似てない。親戚、友人…いや、わがままなお嬢さまと付き人だろうか。
青空の下では、太陽の傍らに控える真昼の月のようにアレフ様は影が薄い。これは人目を引かぬようにまとっている幻術の効果だろうか。
同じ術は、このクインポートである意味有名人なティアにもかかっているはずだが、彼女の存在感は相変らずだ。
「そろそろ宿に参りましょう」
声をかけると、悔しそうな顔でティアが振り向いた。
「時間切れかあ」
立ち去りかけた直後
「ちょいお待ち。仕方ないねえ、こっちのベルト込みでどうね。暗器だけ買っても腕や足につけられなきゃ、意味無かろうに?」
老婆がやっと折れたらしい。それにしても、腕輪や耳飾りではなく隠し武器とは…えらく物騒な貝細工があったものだ。
市場に近い水鳥亭は、港に集まる商人目当ての真新しい宿だった。一階は魚介類の料理とワインが自慢の食堂。2階と3階は客室。気取りすぎてはいないが、建物は立派でそれなりに料金も高く、接客係のしつけも行き届いている。
部屋が整うまでの間、朝昼兼用の食事を勧められたが、案内されたのは奥の席。柱と籐編みのついたての陰だった。最上階のもっとも広い部屋を要求した客への対応としては及第点といったところだろうか。他の客からの注目を浴びずにゆったりできる席。窓から遠いのも助かる。
だが…
「あ、玉子もちょーだい」
アレフ様が召し上がらない事をごまかすために、隣の皿からも食べてくれと頼みはしたが、もう少しさりげなく出来ないものだろうか。ティアの無作法に、そろそろ給士が苛立ち始めている。
貝柱のクリーム煮に、ハーブを添えた焼き魚。すべて奪って平らげてしまうティアの健啖振りを、アレフ様ご自身は楽しそうに見ておられるが、傍目には腹立たしい光景だろう。
肉料理を出す機会をうかがっている給士を手を上げて呼び、部屋の方がどうなっているかたずねた。整っていると聞いて逃げ道を見つけた心地がした。
「すみません、馬車に揺られたせいかリック様はどうにも気分がすぐれませんで。出来れば先に部屋に」
「承知いたしました。お客様、お部屋へご案内いたします」
疑問が解けたような笑顔を浮かべて主と共に去る給士を見送ったあと、代わりについた女給を呼んだ。
「少し休まれたら、リック様も何か口に出来ると思いますので、昼ごろに何か軽い料理を部屋に運んでもらえますかね?」
「では、白身魚と玉子の蒸し物と、干し貝のスープで煮込んだ麺などはどうでしょう。臭いや油気がなくて体調がすぐれない時もすっと喉を通ります」
「それはいいですね。よろしくお願いします」
厨房に向かう女給を笑顔で見送って、ほっと息をついた。
「エゲツないことするわねぇ」
テーブルの向こうから厳しい目でティアがにらんでいた。
「心配なさらずとも何も起こりません。泊まっている宿で“食事”をすればどうなるか…その程度の分別はお持ちです」
そう、この街ではたぶん何も起こらない。ただ、渇きは自覚されるはずだ。
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