天井の漆喰には波の意匠。壁には砂浜を思わせる麻布が貼られ、床には海色のじゅうたんが広がっている。白木の調度からは生々しい樹脂の香りがはなたれ、魚をかたどった薄緑色の花瓶が呑む白バラの香りとせめぎあっていた。
水鳥の羽を詰めた寝具は柔らかく軽いが、土から離れているせいか落ち着かない。青く塗られた鎧戸と金茶色の厚いカーテンが陽光を防いではいるが、完全な闇とはいいがたい。数百年ぶりに身を横たえた開放的な寝台は、アレフに浅いまどろみしかもたらさなかった。
船上では、これに揺れが加わることになる。
「馬車で昼をやり過ごすよりはマシか」
数日前から架空の人間…リチャード・ウェルトンを演じてきた。光のある場所では影を足元に作り、ガラスや金属面に姿を投影し、息があるフリを続ける。周りを畏怖させ魅了する気配を、穏やかな無視をうながす雰囲気に変え、代理人の館で休む事もなく、人の間で常に緊張を保ってきた。
しかし、そんなわずらわしさを苦役と感じない、往路とは異なる楽しみがあった。
誰にも恐れられず注目される事もなく、その他大勢に埋没することで見えてくる人々の暮らしと息遣い。贄の心から読み取るしかなかった、普通の人間の生活。駅の待合室で交わされる愚痴や、市場の露店商の売り口上にすら、新鮮な感動を覚えた。
さっきも慌しくエビと豆のワイン煮をかきこむ出立間際の旅人や、干し果物を焼きこんだ菓子とハーブティーを楽しむ散歩途中の老人、彼らの周囲をめぐり世話を焼く給仕や女中を見ているだけで楽しかった。3階の奥まった部屋に追いやられた事が罰のように感じられる。眺める事に夢中になりすぎて手元の演技がおろそかになった罰だと。
控えめなノックの音がした。
扉の向こうに重い盆を広げた指先で器用に支える女の気配があった。眠ったふりをするには、彼女の心配と思いやりが一途すぎる。真昼独特の倦怠感をおして身を起こし、鍵を開けた。
「失礼します。ご気分はどうですか?」
入ってきた彼女の笑顔が強ばり足が止まる。明りを点けるのを忘れていた。ランプの位置は分かっているが、商人のウェルトンが火の呪を使うわけにはいかない。仕方なく南側の窓を開けた。青空と白い雲が目に辛い。
「お休みのところをお邪魔してしまったようで、すみません」
彼女がテーブルに置いたのは、滑らかな半円の玉子料理と、白い汁に浸った深鉢の麺。困惑しているのが分かったのか、言い訳めいた言葉が添えられた。
「お連れのドルク様が、たいへん心配していらして、昼食をお持ちするようにと」
食欲がないと言いかけて、やめた。自分の為だけに作られた料理など、それこそ転化して以来初めてだ。老いた母の時間を大切にしようと、同じテーブルに着き食べるまね事をしていた時期もあったが、あれはあくまで母のための料理だった。
フォークの使い方を思い出しながら、黄色い曲面から1口分切り出し、震えるカタマリを慎重に口に運ぶ。ゆるい粘土のような食感の中にほぐされた繊維状の魚肉が混ざっていた。甘みを覚える動物質と塩味は血に似ていなくもないが、美味しいとは感じられない。固形物を拒もうとする喉をだます様にして嚥下した。
次の麺は難敵だ。フォークに絡んだ数本をまき取り、口に含む。潮の香りがする平たい小麦粉の加工物を噛み、スープで強引に流し込む。胃の腑を締め上げるような痛みと、嘔吐の衝動をこらえて、もう1匙だけ温かなスープを口に含んだ。頭の中で白濁した液体を紅い液体にすり替え、なんとか満足そうな笑みを浮かべる事に成功する。
善意が報われた喜びにほころぶ口元を見上げた時、“本物”が手の届くところにあると気づいた。彼女自身が昼食だったのではないだろうか。ほんの数口だけなら健康を損なう恐れもほとんどない。瞳を捕らえて抱きしめて…いや、その前に身を明かして承諾を得て、法にのっとった手続きを経てから、ゆっくりと。
だめだ…そんな事をここでしたら騒ぎになる。
明日の船で立つ事も出来なくなる。
「ありがとう、こんなに美味しい料理は久しぶりです。時間をかけて食べたいので、すみませんが後で食器を取りに来てもらえますか?」
脈打つ首筋から視線を引き剥がし、食べかけの料理に目を落とす。彼女が部屋を出るまで、もう一口分切り取った玉子料理を見つめていた。
気配が遠ざかるのを待って鎧戸とカーテンを閉めた。ほの暗い中、砑螺貝《つめたがい》を象った便壷にいま食べたもの全てを吐き出した。胃液が無いせいか吐しゃ物独特の臭気や喉を焼く痛みはない。だが吐く苦しさは生身の時と多分変わらない。
空しさと渇きを抱えて再び寝台に身を横たえた。気を紛らわすために意識を代理人たちに向ける。前にクインポートに来た時は、片手の指で足りる数だった視点が、今はほぼ東大陸全土に散っている。
それぞれが差配する町や村の近況と抱えている問題を確かめ、人々の暮らしぶりをきく。ひどく困窮している者はいないか尋ねるのは、為政者としての当然の義務、そして慈愛の精神からだが、隠された別の意図を含んでいる事を、しもべ達も心得ている。
血の対価で家族を救おうと思いつめている者。生きる事に疲れ果て絶望している者。贄に指名されても拒む事が出来ない者。
馬車を雇い急いで向かえば、朝日が昇る前に戻って来られそうな南の漁村。そこに、舟と男手を嵐で失い破屋で震える妹達を掻き抱き途方にくれている娘がいると知った時、不幸な境遇に同情する心話を送りつつ、口元に笑みが浮かぶのを抑えられなかった。
身支度を整えながらドルクを呼ぶ。すぐ近く、隣室から応えがあった。警護というより軽はずみな行為を止めるために控えていたのではないかと勘ぐりたくなる。とうに対価となる金袋と馬車の手配を済ませていた手回しのよさにも、軽い腹立たしさを覚えた。
足音も無く入ってきた黒い従者に、テーブルを視線で示した。
「残さず食べてくれ」
何も知らぬまま危難にさらされた彼女の善意を無駄にしないため、陰険な依頼の後始末ぐらいはしてもらおう。
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