しばらくして不満そうな顔で帰ってきたティアが、返り血を浴びてないことに心底ほっとした。あれだけひどく殴られても、あの司祭の逃げ足の速さだけは損なわれなかったようだ。
「ひとつ、聞きたいことがあるの…聖水が痛いんだけど、なんで?あれって、もったいつけたタダの水じゃないの? 眠っているうちに…噛んだ?」
首に巻かれた銀の防具を不安そうになでる。その左手に、血色の指輪がはまっていた。
「アレフ様が闇の子になさったのなら、陽の光に肌を焼かれますし、そんな防具はつけていられませんよ。そのスタッフを持つのも法服を着るのも、辛いと思いますよ」
馬車の点検を終えたドルクが安心させるように笑む。
「ところで、イモータルリング…その紅い指輪はいつから?」
「これは父さんが死ぬ前に…
げ、この形見の指輪のせい?
やだ、外れない」
「簡単に外れても困ります。貴女のような向こう見ずな方には必要な指輪だと思いますよ。まぁ、造ったアレフ様が滅びない限り不死身になったと思って下されば…」
ひとしきりあがいた後、指輪を外すのを諦めたティアに、なぜニラまれなくてはならない?
「いい手考えたわね。噛まなくても仮の眷族に出来る術具なんて。不死身の従者は欲しいけど心は繋ぎたくないってコト?利用するだけ利用して、いつでも捨てられるように」
これはまた、ずいぶんな誤解だ。
「道づれにせずに済む…昼も動ける仮の守護を作る術具です。くちづけを与えても生身は生身。正式な闇の子に比べて弱い衛士を危険な地へ赴かせる時、身の安全を保障するための指輪。渡す目的は使い捨てとは真逆ですよ。ティアさんが心話を…私の何もかもを拒んでいるだけで、その気があるなら心は繋がります」
あの町長といいこの娘といい、クインポート育ちの者は独立不羈(ふき)の精神にあふれすぎている。
「…あたしの心、読んでるの」
「時々」
「ヘンタイ」
「この流れでなぜ変態呼ばわりされるのか、理由がサッパリ解らない程度の読心など、気にする程のモノでも…それに、テンプルの者はヴァンパイアの精神支配に対抗する修行をしているのでは?」
急に娘の心が読めなくなった。特定の条件下で発動する自己暗示の一種だろうが、なかなか見事な芸当だ。
「その方が助かる…狭い馬車の中でずっと敵意を向けられても気詰まりです」
ドルクが裏手の小屋で草を食んでいた二頭の馬をひいてきてくびきに繋ぐ。陽も傾いてきた。そろそろ潮時か。今回は一人だったが、日が沈めばもっと大勢で押しかけてくるかもしれない。人の心に住む荒ぶる魔物が力を増すのも、闇の中だ。
「シルフィード、すまないが、また、船を見守っていてくれるか?」
マントを軽く吹き上げ、からかうようにティアの髪を巻き、風の精霊は港の方へ駆け下りていった。貿易商達に下らない嫌がらせをした所で、譲歩を引き出せないのなら意味は無い。何より金が湧く泉を埋めるのは愚行以外の何ものでもない。
「そのスタッフは後ろに…狭い車内に持ち込んでも邪魔でしょう」
ドルクにうながされて、しぶしぶティアがスタッフを手放す。太守と同席する以上、ある程度の武装解除は覚悟していたのだろう。
というか
「それは元々ラットルの物では?」
「それがどうしたの」
強盗の罪を指摘したところで、また予想外の事例か理屈を持ち出して来そうだ。この娘には、根本的な部分で当たり前の常識や倫理が通じない。それが、当人の資質によるものか、テンプルの教育によるものなのかは解らないが。
「いや、なんでもない」
見た目は可憐な無頼の者との道行きは、緊張に満ちたものになりそうだった。
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