妻は居を田舎の山城にうつしていた。
生者としての肉欲をロバートが失ってしまった今となっては、妻の存在など無視しても良かったが、互いに睦み合い子を成した執着がある。それに今も結婚の誓いは解消されていない。
月明りの廊下を子供が駆けていた。
月が凝ったような髪は母親譲り。幼い顔は子供としての愛らしさに欠けるが、長じてのちの美貌を予感させた。
「アルフレッド」
そうロバートが呼びかけると、小さな腕に本を抱えた幼児がふりかえった。
「おじさん、だあれ?」
他人呼ばわりされた驚きと怒りは、物心ついたばかりの子供が抱えるには不自然なまでに厚い本を見た瞬間、心から一端忘れ去られた。
「何を、読んでいるのかな」
「光学研究の歴史っていう本だよ。おじさん知ってる? 光ってね波なんだよ。縦と横でね、こんななってるの。そんで、すんごい小さいのやすんごい大きいのもあって、この世界より長い波の光もあるんだよ。波だから曲がったりもするの。水の波といっしょ。でね力場があると引き込まれてねモヨウも出来るんだ。この前お母さんと本のとおりの実験もしたよ、でね」
本を開きながら嬉々として学んだ事を話し続ける。
それは祖母が書いた手書きの本だった。わざとではないかと思われる難解な言い回しと、独特の文字の使い方で、ロバート自身も紐解いたものの途中で投げ出していた。そんな事より自分の研究を押し進める方が大事だったのだ。
本の各所を小さな指が差し、読み上げては時々首をかしげる。そして自分なりの推論をしてはまた話が続く。ついつい引き込まれ質問をするとかなり的確な答えが返ってくる。幼いが真摯で飽きを知らない情熱に舌をまいた。親としての喜びがこみあげる。
「いらっしゃい、アレフ」優しい女の声がした。
「母さま」子供が本を片手にロバートの元から駆け去る。
こわばった顔の妻がいた。しかし息子には温かく微笑む。
「お父様よ。ご挨拶はした?」
「お父さまなの?」
今一つ飲み込めない様子で首をかしげる息子を前に、この子の可能性を最大限に伸ばしたいという思いがふつふつと込み上げてきた。
ロバートは母がしたように時間が許すかぎりアレフに学問を教授した。すでに読み書きと基礎的な事は妻が済ませていた。ロバートは数限りない質問に答えると同時に知識を得る方法と体系化する術を教え込んだ。
代々のウェゲナー家当主によって集められた雑多な書物から知識の果汁を貪欲に絞り取ろうと書庫に入り浸るアレフに目を細め、大量の書物を集めて与えた。
だが、まだ信頼できる臣下を持たないロバートは、そうそう息子にかまってもいられない。男親の代わりとなる人材を見つけて当てがう事を考えた。ロバートは母親と毎日を過ごす息子がめったに外出しない事に気づいた。色素の薄い肌のせいばかりでもないだろう。
書庫が一番の遊び場なのは仕方ないが、子供らしい遊びや男の子らしい楽しみを全く知らずに育つのは良くない気がした。だからといって、不用意にそのあたりの子供と遊ばせる訳にも行かない。まだ巷にはロバートに対する表だった怨詛の声もあるのだ。肉親を“糧”にされた恨みから、無力なアレフに復讐の刃が向けられないとも限らない。
転化した頃から懇意にしてもらっていたウッドランド城のグリエラス・フリクターに招かれ新しい貿易航路の話し合いのために暫し滞在した時、丁度良い人材に行き当たった。
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