自分にとって人は何か…
問われた瞬間、白く凍りついた山頂でたったひとり、青黒い空に囲まれている気分にアレフは襲われた。山すそは闇に沈んで見えない。星が瞬いていてもいい暗さなのに、雲も無くどこまでも透明な宵の空。
高揚感というには冷たすぎる無気味なおののき。体温のない身が氷の彫像に変わり永久に動かなくなるような、孤独。
いや、そんなはずはない。
心を向ければ血の絆で結ばれたしもべたちの心の呟きが聞こえる。決して従順なばかりではない彼らは、己の一部とはいえない。確かなる他者。繋がりあった眷属。
彼らを食料と思ったことは無い。
触れて捕らえて口付ける。家畜の死肉や、茹で殺した植物を、人が食らうのとは全く意味が違うはずだ。
今は日常とは違う旅のとちゅう。時に強引な方法を取ることもあったし、おそらく今回もそうなるだろうが、本意ではない。
食うには違いないのかも知れないが、心の繋がりを伴う…いや、テンプルの者達は仕方ない。あれは報いだ。こちらを滅ぼそうとするものを捕らえたなら、どう扱おうと自由なはずだ。
それに、私以外にも不死者はいる。キニルで会った新参者とその親。さらに海を越えた遥か南の彼方、シリルにいるという始祖。私は1人じゃない。ウサギだけの国に取り残された、たった1匹のキツネじゃない。
この妙な気分は、空の半ばまでおおう巨大な山を見上げながら数日を過ごしたせいだ。初めて間近でみた偉大すぎる自然のせいで生じた気の迷い。
「それは…」
言いかけて気付いた。
聞かれている。
男女の睦言でも聞こえないかと、下種な聞き耳を立てているスレイに。
今までのティアとの会話を全て思い返しながら、スレイの疑念を晴らす答えを考える。疑惑を確心に変えて、いま逃がすわけにはいかない。せめて山道を走るのがためらわれる闇が下りるまで。残照が峰から消えるまでは。
「知りませんよ。直接会ったこともないヴァンパイアの思惑など。いくら東大陸の生まれでも」
今の偽名はアヴジュだった。世間話として語ればいい。聞きかじった山の知識でも話すように、アレフの事を。
「ただ、中央大陸で言うほど、無体でも非道でもないと聞いていますが」
ティアがつまらなそうに口を尖らせる。外の気配に気付いての質問か。
ドルクと私を慌てさせたかったのか。怯え逃げるスレイを、追いかけ捕らえる様を余興として見物したかったのか。
何もわざわざ身を明かして恐れさせる必要は無い。泥のような眠りに落ちている真夜中に、奇妙な夢のふりをして訪ない、夜明けと共に忘れさせればいい。
「分かった。次の山荘を立った後にする。このガケ際の野営地では何もしない」
今日を逃したら、機会はあさってか。いや、足を伸ばして眠った後の方が、血のよどみも少ないかも知れない。
「ねぇ、その辺で座って用足ししてもいい?ここの便所、マトモな肥溜めの倍は臭いんだもん」
渋い顔をした山荘の雑役夫が、文句を言うティアを便所に押し戻すようなしぐさをする。
石の原で植物と白い雪渓が陣取り遊びをしているような、緩やかな斜面。茶色や白や黒のケモノが群れる中で、貴重な木の板に囲われてたつ便所は、生身の人が生み出す汚わいそのものだ。
背景の清冽な峰との対比が、いっそ清々しい。
石組みの平たい山荘は、毛が長く寒い時期にも荷を運べる山ラクダの群れのただ中に伏せられた巨大な本に見えた。はく離した石片でふかれた屋根。端の煙突からたなびく煙は、家畜のフンを乾燥させたものだろう。
「うちの山ラクダ6頭と、そっちの馬4頭。交換しないか。馬の半分しか食わないし、疲れ知らずで言うこともよく聞く。何より悪路に強い」
馬体にブラシをかけながら厩舎の男が笑う。馬の半分しか食わないかもしれないが、力も半分。そして値段は馬の1/5と聞いた。
「この馬たちは何度も山越えをしているそうだ。ありがたい申し出だが、このままでいい。この先の道も駅馬車が月に2度は行き来できるように整備されていると聞いた」
心づけを渡した後、雪渓から染み出す清水を樽にうけているスレイの丸めた背と長い影に目をやる。
もう少し旅人が多いかと思ったが、山荘に泊まる客は他にいない。しかも男女で泊まる部屋が分けられている。男性客用の広い部屋に、今夜はドルクと私とスレイだけ。邪魔が入る恐れはない。
今夜、眠りに落ちるのを待って、少し頂こう。
ふと、視線を感じて、弛みかけた頬を引き締めた。便所から出てきてむせているティアが、悪臭でうるんだ目をまっすぐこちらに向けていた。
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