「あちらの方にいま、灯りがっ。戻って来られたようです」
月明かりとタイマツを頼りに、岩陰やくぼ地を捜していた山荘の者達にむかって、ドルクは叫んだ。
「お散歩好きな召使いと、情け深い坊ちゃんにキツぅく言っといてくれ。ここは下界とは違う。滑り落ちたら命はないってな!」
「月夜に出歩きたくなる気持ちは分かっけどよう」
炎を手に戻ってきた男たちがボヤく。
振り向けば山荘のある高原を抱く白い山なみ。近づくほどに偉大さを増す白と黒の壁を背景に、月光に髪を梳かせたティアが立っていた。
「見つかっちゃったんだ」
雪と石を踏んで同じ場所に立ち、濃い茶色の頭を見下ろす。
「煙花の取り引き小屋で待ち伏せして…無事に。まったく何を考えて。もし彼らに話してしまったら」
「それはないって。人に話を信じてもらったコト、スレイは無いから」
手を振った娘が小ずるい笑みを浮かべた。
「口付けを見たくなくて、逃がそうとなさったのですか?」
「卑怯だなって思った。ウソついて心を弄って誤解させて、楽しんでたからムカついた」
「真実を告げないのも優しさでしょう」
結末が変わらないなら、深刻な恐怖も危険をおかしての逃走も、むなしい。
「本当の事ってツライよ。でも、知らずに間違う方がキツい」
まだ若いな。微笑みそうになって、顔を引き締めた。
「スレイはすでに我が主のもの。これ以上よけいな事はなさいませんように。さすがにご不興をかいますよ」
「食い物の恨みはコワイもんねぇ」
鼻で笑ってティアは山荘へ歩き去っていく。ここで独りにされても、自力で山を越える自信があるのだろう。
夜になると敏感になる鼻が、風の中にスレイの臭いを感じ取る。斜面を駆けてくる黒い影。月明かりになびく髪の見分けがつくあたりで、スレイを抱えておられているのに気付いた。
高山の寒さや息苦しさは生者の足は鈍らせても、不死者の動きを妨げない。最初から逃げおおせるのは無理だと分かっていて真実を告げたのなら、意地が悪すぎる。
「出迎えご苦労様。我々を案じて探してくれた者達に、酒と心づけがいるな」
小猿のようにしがみついていたスレイを下ろしながら、浮かべられた笑み。スレイの心をいいように操ったという意味では、主とティアは同罪なのかも知れない。
「明後日には、あの山を越えるのか」
「正確には、あの間の峠を…で、ございますが」
「上空で氷の雲が広がり始めている。天候を安定させる術式が要るな」
星空を見上げても異常はわからない。風が冷え、水分が増しているのは感じた。
「山荘の者たちに無事なお姿をお見せになってから、方陣を描かれるなり呪を唱えられるなり、なんなりと。それと影」
うなづいて下りていく2人のうち、一方の足元に染み出した細長い闇。どうも食事の後は気がゆるみがちだ。
天候よりも、主の甘さがドルクには気がかりだった。
濃い霧に包まれた翌朝。
山荘の者たちに案じられながら出発した。霧が本物なのか、昨夜アレフ様が描かれた方陣によって、雨や雪が砕かれて生じたものかは、判断つかなかった。
ぼんやりとした貧弱なカタマリに見える日の元で、気分が弾んでしまうのは、闇に属する者のヒガミだろうか。それとも威圧的な山嶺が見えないからだろうか。
目に頼らずあたりを知覚している主の意を受けて手綱をさばく。片側は切り立ったガケという道がしばらく続いたが、見えないことが幸いしてあまり怖くない。山岳種の小型馬では上がらぬ坂道は、スレイだけでなく主の手も煩わせることになった。
霧の中から不意に現れる岩に驚かなくなった頃、右側から差す夕日に、馬車が照らされ、一瞬、霧の中に丸い虹が現れた。ロクに見られなかったと口を尖らせるティアは、夕食の支度をさせると、大人しくなった。
本性を隠さなくても済むようになった主は、夜の方が調子が出るのかも知れないが、馬と御者がもたない。馬を休息させるために、馬衣をかけ夜は結界で包んでいただいた。
そして翌朝。
霧が晴れると、巨大な谷のただ中にいた。向こう岸にそびえる峰も、道が刻まれた山肌も、あまりに大きすぎて遠近感が狂う。呆けて見つめたあと、足元ばかり見るようになった。
茶を沸かし山ラクダのチーズを入れたカユを作った。朝食を済ませた後、主に呼ばれたスレイを黙って行かせる。幸せそうな笑みを、複雑な顔で見つめるティアの心の内は忖度しようがない。逃がそうとしたのは本気でスレイ思っての事だったのか、歪んだ嫉妬からなのか…
昼過ぎ、峠を越した。銀色に輝く海がはるか彼方で弧をえがいていた。登りより急な下り道はいくつもの鋭い曲がり角をもって、斜面に刻まれていた。その先に黒い森と耕作地らしい四角いモザイク模様。ベスタの街はもやって見えなかった。
「今夜、宿泊する山荘にスレイを置いていく」
感情を押し殺した主の声に驚く。哀しげなスレイの顔色は、そんなに悪くない。まだ健康を害するほど飲まれていないように見えた。
「しばらく滞在して旅人から話を聞いてもらう。万が一、ここをモルが通ったら、私に知らせてくれ」
代理人、ということか。2度とないかもしれない主の訪ないを待ち続けて、山麓で一生を無為に終えろと。
従順にうなづくスレイを見る、ティアの目が厳しい。いらだったように石を蹴り飛ばす。
「呪縛、解いていい?」
「触媒は与えられない。それにスレイも私も解呪を望んでいない」
何か言いかけて背を向けたティアに、主が向けられた笑みはひどく透明で、胸を締め付けられた。
「スレイの行く末は心配しなくてもいい。私がモルに滅ぼされたら、呪縛は勝手に解ける。勝てたとしても、私はそう長生きしない」
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