ワインとカルカ酒を混ぜた紅玉色の液体を、ドルクは3つのグラスに注いだ。ベストのポケットには、幻術を封じた水晶球。灰色の前掛けがおおっているとはいえ、ふくらみは目立つ。客室の狭いテーブルを整える手を、汗が湿らせる。
褐色の髪の間から地肌が透けて見える男が、酒を口に含み、パンを裂く。筋張ったその手に斬られ首を落とされた記憶は、ドルクには無い。だが、殺した側は忘れていないはずだ。
鎧こそ脱いでいるが、男が座る寝台の上には少し短めの剣。ベルトには銀のナイフ。トドメを刺すより手数を重視した軽めの武器。室内でも十分に力を発揮するだろう。一方、給仕を装うドルクはクギひとつ帯びていない。幻術が破れたら終わりだ。
熱いツボにかぶさったパイ生地を落とし入れる際に、粉薬をソデから落とす。階下の拳士はこれで眠らせた。グラスを一気にあけて、勝手に二杯目を注いでいる聖女にも効くだろうか。大酒飲みは時として、痛みと薬にドン感だ。
聖女と同じ寝台に座っているティアは、事前に心話で打ち合わせたとおり、パンだけをかじっている。予定していたジガットでの再会は無理だと伝えられた時は、ひどく不機嫌だったらしい。急ぎネインで仕掛けなおした今は、無表情だ。
「食べないの?めずらしいわね。疲れちゃったかな。それとも焼かれた町の臭いにアテられたのかなぁ」
皿に盛った野菜のツボ煮をかきこみ、パイ皮を噛み砕いた聖女が、ため息をつく。
「見ず知らずの他人の心配はほどほどにね。偽善者と思われたいのなら別だけどさ。人が出来ることなんてホンの少し。出来もしない、する気も無い事を、考えるのは時間のムダ」
半端な雨を降らせただけで、結局は救いを求める声を全て無視して逃げてしまわれたアレフ様に、お聞かせたい言葉だ。
口当たりは良くてもキツい酒に剣士が酔うまで。
料理に仕込んだ眠り薬で聖女が眠るまで。
司祭を引き止めておく事ぐらいは、お出来になると信じてはいるが…少し心もとない。
「気持ちが悪いのかな。どこか痛む?」
聖女がしつこくティアを気遣う。同行していた時の様に、ひとの分まで遠慮なく食べていたとすれば、パンしかかじらないのは異状と思われても仕方ない。だが薬入りの料理を食わされては、2階の窓から逃げられなくなる。
意を決して、ドルクは部屋を出た。眼下には、酒場を無言で出て行く客。司祭は座ったまま。ハッタリは成功したようだ。
教会の権威をタテに、無体を働く司祭をこらしめたい。仕掛けるのはちょっとした悪ふざけ。打ち合わせどおりに芝居をしてくれたら、渡した紅い指輪と引き換えに、表に立っている女給が金貨を一枚づつくれる。
イモータルリングによる呪縛と暗示。思わぬ収入にニヤついていた客たちは、与えられた役割を演じきったようだ。
急いで部屋に戻り、ドルクは息を弾ませた。
「下が、変です。静かで人がいません」
すぐに反応したのは剣士のほう。だが、剣を杖に廊下へ向かう歩みはフラついている。聖女は…立ち上がろうとして、よろけて寝台に倒れこんだ。まだ意識はあるが動けまい。
ティアは手早くブーツをはき、スタッフを手にした。聖女のポケットからサイフを掠め取り、荷から皮包みを引きずり出す。
ドルクは窓を開け、敷布をはすかいに結び、綱がわりに窓から垂らした。途中までは寝台にくくりつけた敷布をつたい、軒のところで地面に跳び降りる。
駅の広場には、立ち尽くしている女給と客たち。女給が金貨と引き換えに回収した紅い指輪をドルクは受け取り、厩《うまや》へ急いだ。アレフ様が脱出するまでに、馬車を整えなくてはならない。
だが…無事に酒場を出てこられるのだろうか。今は司祭だけでなく、剣士とも対峙されているはずだ。
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