大勢の人が集まっている重い気配。嵐が近づいて来るような、心かき乱すざわめき。陽光を締め出した寝室で、夢からうつつへと意識が浮かび上がっていく。
覚醒するまでの短い間に、アレフは遠い過去を垣間見ていた。
街を彩る花と布。ひとでを見越して並ぶ串焼きの屋台。ふるまい酒に酔う人々。鼓手と楽師が繰り返す音曲に合わせて、夜中まで踊る男女の群れ。
キニルの事務所へ回させた小ぶりな貸し馬車。花街の宿へ向かった折に黒い紗布ごしに眺めていた光景。ムチと手綱をふるうドルクの背中が闇に溶けている。灯火では照らしきれない暗い夜。生身だった頃の最後の記憶。
「まったく連中の気が知れない。ヘビの誕生を祝って歌うカエルなんて滑稽。新しいネコに乾杯するネズミがいたら大笑い」
赤い髪に緑の耳飾り。眼の色に合わせたルリ色の衣を、しどけなくまとった女が窓辺で笑う。身を明かさぬ偽名の客を、からかう視線。
祝われている当人だとは知らなくとも、橋の向こう側に属する者だと、知った上での戯れごと。
転化して初めてファラ様に与えられたのが、赤毛の娘だったのは、偶然ではないだろう。最後の夜の事を読み取って、好みに合う者を手配した。他意はないはず。
苦界に身を沈めた姉を、血の対価で救おうとした娘。加減できず命まで奪ってしまった初めての贄。ネイラの妹とは限らない。単なる偶然にすぎない。似た境遇にいる娘が幾人この街にいるか。
意図せず赤毛の姉妹に招いたかもしれない悲劇。血の対価に上乗せした命の対価は、ファラ様のしもべの手で届けられ、当時も確かめる術は無かった。
真実は時の彼方にまぎれた。身内を奪われた者の嘆きが、恐れと共に幻聴となって心にこだまする。
思い出すことも厭《いと》っていた後悔。鮮やかに蘇るのはかつての花街に近い宿にいるせいか。それとも向き合う強さを得られた証だろうか。
単に繰り返してきた罪に慣れ、時の中で恐れる気持ちが薄れてしまっただけだろうか。
天井から下がるビロードの布を振るわせる歓声は、ファラ様を讃えるものではない。ウェゲナー家を祝福するものでもない。
繰り返される名は『モル・ヴォイド・アルシャー』。とうに街を出て東に向かった討伐隊を指揮する、英雄の名を人々は叫んでいる。
「お目覚めですか」
寝台から下りた背中に、ドルクが上着を着せ掛ける。鼻をつくインクの匂いとともに紙質の悪いチラシが差し出された。
耳ざわりのよい形容詞を連ねながら、森の大陸での悲劇とモル司祭の勝利を決め付ける読売り。スミに小さく書かれた寄付金という名の新たな税の導入がサギに見える。
「紙質もひどいですが、内容もひどいものです。昔はもう少し骨のある、小癪《こしゃく》な読み物でしたが」
「…かつての我々も、同じくらい思い上がっていたのかも知れないな。周囲から聞こえるのは、おもねった美辞麗句ばかりだった」
苦笑しながらルナリングをはめ、陽光をやわらげる結界をめぐらせる。マントを羽織ったとき、あわただしく階段を駆け上がる足音とともに、ノックもなしに扉が開いた。
「ね、ちょうど下を通ってるの。窓開けていい?」
返事を待たずにティアがカーテンを払い、窓を上げ、鎧戸を押し開く。差し込む夕日に、かりそめの夜が吹き払われた。
窓から身を乗り出す蜜色の髪のかたわらに立つために、フードを目深に下ろす。
下の大通りを人が埋めていた。
見渡す限り沿道に集まり背伸びする頭。振りまかれる花びらと紙片。白馬に乗った先触れの騎士に続く、銀ヨロイの剣士の列。太鼓とラッパからなる楽団。
その後ろに、タテガミと尾を紐で飾りたてた白馬に乗って手を振る、灰色の法服たちと拳士の一群。中央の金髪の若者に向かって人々は手を振り、武運を祈っているが…カツラか。
「やっぱニセモノか。本物だったらここから突風のひとつもブチかましてやったのに」
「人ごみのただなかで攻撃呪を使うつもりか?」
目にゴミが入る程度で済めばいいが、無秩序な混乱が起きれば、見物人に肩車されている幼児や、足元のおぼつかない老人が、大勢に踏まれて死ぬかもしれない。
これから本物のモルを追う事になるが、出来ればひとけのない、街道で追いつきたいと密かに願った。宿を襲撃するような事態になれば、死人が何人出るかわからない。
それにしても、なんと膨大な人の数と歓呼の声か。
祝福や呪詛の声ひとつなく、バフルに迎え入れられた己との違いに目まいを覚える。都市の規模が違いすぎるとはいえ、うごめく頭のじゅうたんに、酔いそうになった。
「かつては、こうして見る側ではなく、見られる側だったのでございましょう?」
ドルクのことばに、ティアが照れたようにうなづく。
「ハデなのは次の宿場町まで。あとはガックリするほど質素な旅だった」
「みな、若いな」
「テンプルは独身が条件だから。タテマエでは子供が出来たり結婚したら籍を離れることになってる。今でもね。
そりゃ地方の教育官は所帯持ちもいるけど、ホーリーテンプルに入るときは係累を全て切るって誓約書を書かされた」
「不自然な禁欲は、身の毒だろうに」
「…あんたがそれを言うかな。昔は吸血鬼を滅ぼそうとする者は、家族もろとも死罪でしょ。幼子も例外なし。だから恋も結婚も基本は禁止。今となっちゃタテマエ以外の何ものでもないけどさ」
昨夜、灯火の元で教本を読んでいた若者たちを見たときに覚えた哀しさを、再び感じた。
不意に、彼らを哀れんでいたわけではないと気付いた。全てを賭けて私の滅び願う者に囲まれている事実が哀しかった。あれは投影した自己憐憫。
世界に拒まれている孤独感を埋めるために、彼らのうち一人を篭絡し、絆を結んで安心を得たかったのか。実に的外れな欲望。無意味さに笑いがこみあげる。
そのために死んだ…いや滅びてしまった若者こそが、真に哀れな存在だ。
転化させておきながら、渇いて目覚める子のための贄を用意せず、日暮れ前に陽光さしこむ部屋に放置して立ち去った、シャルとかいった吸血鬼に対して、改めて怒りがこみ上げてきた。
ひとりの血を共有したことによって、腹立たしい事に、わずかな絆がまだ感じられる。地上の賑わいをまどろみの中で聞いている、あの者の寝所は暗い下水の一角。古い教会の、廃棄されレンガで塞がれた抜け道の奥。かつての事務所の向かい隣。
破滅まで望みはしないが、投げ文で潜む街区を示すくらいは、かまわないだろう。巡回が強化されれば、多少は慎み深くなるかも知れない。
もっとも、彼らもテンプルの思惑で動かされる駒だとしたら…私同様、居場所も動向もおおよそだが知られていて、今、読売りのウラに書こうとしている、筆跡をいつわった密告文は、余計なお世話か。
進発したモルの身代わりを見送り、太鼓とラッパが遠ざかるにつれて熱と興味を失い、日常へと散っていく人々。見ているうちに、怒りも哀しみも平らかになっていく。
結局、書き上げた文は、わずかな銅貨を握らせた子供に託して、車中に身を置いた。
詰め所に届けられたとしても、ゴミ同然の紙に書かれた無記名の手紙など、無視されるのがオチ。
届けず捨てられてもかまわない。偶然の連なりが、運命だ。
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