村がざわついている。
それが、最初に受けた印象だった。
煙突のけむり。堆肥の臭い。刈られた青草。そして人の息遣い。
40年前の記憶にあるのと大差ない家々の営み。
しかし畑にも水場にも、働いているべき場所に人影はなく、道も広場も無人だった。
空気にみちているのは煮えたぎるような緊張。投げ出された農具や風で転がる麦藁帽が、ほんの少し前までここにも人がいたのだと、寂しく主張していた。
よく知っている道を、それでも案内するドルクが皮肉な笑みを浮かべた。
(普段はもっと賑やかなんですがね。)
そう心がつぶやいている。
耳を澄ませば鍵をしっかりとかけた戸口の向こうで目配せしあいながら、恐れと不安とわずかな憧憬をつぶやく声が聞こえる。
アレフは苦笑していた。これ程まで化物扱いされたのは初めてだ。
「よく、代理人の館が焼き討ちに遭わなかったな」
「村人は分をわきまえておりますよ。反乱を起こす度胸などありません。せいぜい、討伐隊に酒を振舞って鼓舞するのが精一杯。
罰をお与えになりますか? あの愚かな勇者たちに親しくした者に」
アレフは軽く首を振った。そして青空に目を向ける。
太陽は北の空を目指して駆け上がろうとしていた。
「では、館の方に。そう…分かっておられると思いますが、彼に慈悲を与えてやって下さい。忠実な代理人として、ずっとアレフ様を待ち続けてきたのです」
2階建ての代理人の館は、記憶より少し色あせている気がした。黒い石の門をくぐり、鉄の鋲が打たれた堅牢な扉を開いて、ドルクが中を指し示た。
陽光から逃れて一息ついたアレフの目に白髪の男が映った。頑健だった肉体は少ししなびていたが、端正な姿勢は失われていなかった。しかし皮膚には深いしわが刻まれ、目はアレフの姿をよくとらえていないようだった。
彼はもう70歳を超えている。生気と自信に満ち溢れた壮年の戦士ではない。
(アレフ様…アレフ様…)
しもべの心は叫び続けていた。
「私だよ。よく待っていてくれたね」
話しかけたとたん痩せた喉からうなり声が漏れた。しわ深い目に涙が湧き出す。近づいたアレフの腕を、ブルブルと震える手が確かめるように触れた直後、床に膝をついた。
「お待ちしていました…40年…ずっとずっと。アレフ様には一眠りでも、わたくしども人にとっては…」
心に苦い光景が去来するのが見えた。ひとしきり泣くようなつぶやきが続いた後、不意に彼は立ち上がった。顔は泣き笑いになっていた。
「すみません、取り乱しました。どうぞ」
目を閉じて手を下ろし頭をめいっぱい後ろに反らす。しわと筋におおわれた痩せた喉があらわになる。
アレフは動揺した。これほど年老いた者から“食事”を採ったことはなかった。
しもべたちは大抵短命で50歳程でみな後継者に後を委ねて死んでいった。しもべ以外の村人を欲しいと思い、この館へ呼ぶことはあったが、それもほとんどは年若い、まだ20歳になる前の者たちだった。
「はやく…」
ドルクが少し懇願するように促した。彼が待ち続けていたのは分かっていた。しかしこの奉仕は、命と引き換えになりはしないだろうか。
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