馬の背より太いドラゴンの首。手をかけるとウロコは乾いて温かかった。タテガミは柔らかい。地を駆ける馬の背にも乗ったことがないのに、空をゆくオークルに乗れるだろうか。アレフの頭に不安がよぎる。
登ってみると、やはり鞍だった。オークルの土色の胸に合わせた皮ベルトで固定されている。黄色い騎座は光沢のある布。新しくはないが古くもない。それに、毛穴のない皮に綿でも絹でも羊毛でもない布。この材質は…
「チャント乗ッテル?」
オークルに注意されて後橋に腰をあわせると、自然と首に抱きつく姿勢になった。タテガミに埋まったもう一本のベルトが手に当たる。牛の角で出来た持ち手…位置からすると私より少し手の短い者に合わせてあるようだ。
「この鞍をつけたのは、誰…」
問いが終わらぬうちに、背後で膨大な筋肉がうごく気配がした。振り向くと視界におさまりきれない長大な翼が広がり、大気を叩いた。後肢が丘を蹴る。大きな魔導の力を感じた。浮遊と呼ぶには安定した静かな上昇。
ちょっとした遊覧飛行でも、無断というわけにはいくまい。
(ドルク…オークルの背に乗って行ってくる)
(先ほどの鳴き声は、やはりドラゴンでしたか。どちらへ)
(オークルが見かけたという不死者の元へ。夜明けまでにつくらしい。そう遠くはないと思う)
(もしや、バックスやシャルのようにテンプルに作られた不死者では)
従者の不安はもっともだが、鞍を据えた者がオークルの言う私の仲間なら…
(違うと思う)
根拠を説明しようとして、塩水の粒を頬に感じ、慌てて物理障壁で我が身を包んだ。
ツバメが水を飲むように、海面をいく度かかすめて、オークルが水しぶきを上げる。最後に濡れた頭部から首までを震わせ、水滴を飛ばした。心地よさげな咆哮。毛長牛の血と肉片で汚れた頭と首を、海水で洗いたかったのか。
「障壁デ、体ヲ包ンダ?」
「水は苦手だ。海水浴は私が乗っていない時に頼むよ」
「ケド、息シナクテモ大丈夫。寒サモヘイキ」
からかうような声。どうやら顔の近くの空気を魔導の力で振動させて出しているらしい。
水面すれすれは相変らずだが、波をかすめることはなくなった。とりあえず、向かっているのは森の城ではない。さすがにバックスらの事でなかったか。
では、どこへ向かっているのかと星の位置を確認しようとして、別の物理障壁の発生を感じた。オークルが作り出したらしい。ドラゴンの鼻先を頂点とした鋭角の障壁。だが、なぜ目に白く映る?
障壁に沿って不定形に揺れる白いものは水蒸気が飽和して生まれた雲か。水面をかすめてはいないのに、扇形に海に広がる白波。障壁に身を包んでいたせいで気付けなかったが、恐ろしい速さでオークルは飛んでいる。
「ソロソロ行クヨ」
広がっていた翼が半ば畳まれて体躯に沿った。尖った羽の先から白い雲が生まれ細い筋となって流れ去っていく。真後ろに高い水柱がたつ気配がした。だが、水音がしない。物理障壁が切り裂いているはずの風の音もない。
「まさか、音を置き去りにする速さなのか」
答えたのは愉快そうな笑いの波動。飛ぶのを楽しんでいる。
音が空気を伝わる速さはたしか、人が走る速さ約の百倍…一日で星を半周してしまう。
夜明けまでに会えると言ったが…
(すまない、かなり遠出になりそうだ)
困惑したドルクに説明して安心させてやりたくとも、こうなると目的地の候補がありすぎて答えられない。
景色が単調な海上に飽きたのか、オークルがほぼ垂直に上昇した。静かなまま雲に飛び込む。視界が効かない白い空間を突き抜けると、落ちた時のことなど考えたくもない高度に達していた。頭上には高山で見るような瞬きの少ない星々。
ドラゴンズマウント領の複雑な海岸が雲の切れ目から見えた。精密な地図を見ているような錯覚におちいりそうになる。地形と星を見定めて、やっと方角がつかめた。
「この先にあるのは私の所領なんだがな」
父の事だったのだろうか。滅ぶ前にこの鞍をオークルに与えたのか。だが、父がドラゴンを手なづけていたウワサなど、バフルではカケラも聞かなかった。牛や羊を与えていたなら、記録にも残ったはず。
この薄い空気と雲も凍る低温の中で、ドラゴンの首に掴まり、ずっと身を低くしているなど生身の者にはむりだ。息をする必要がない者。元から体が冷たい者。疲れを知らぬ者だけが、オークルと共に飛ぶことができる。
夜明けの光が赤く地平に広がる頃、眼下に陸地が見えてきた。形から判断すれば、東大陸でもっとも人が少ない南西の海岸。だが、オークルは海岸を行き過ぎ、山に抱かれて霧をたたえた盆地の上で旋回を始めた。
速度と高度を落としながら、低木とまばらな草の群生地に向かってオークルが吼えた。四角い一軒屋が目のハシにかかった。目を凝らせば、その前でこちらを見上げている人影がひとつ。
白い長衣。黒髪に褐色の肌。高いほお骨とわし鼻。見たことのない男。霧の中では足元に影があるかどうか確認できない。だが、生身の人の気配でもない。
「どうしたオークル。この前きたばかりなのに、珍しい」
少し高い声にも聞き覚えがない。
着地したオークルから、慎重に下りた。
「ほう、これはこれは初めてのお客人…でもないか。断りもなく居ついた流れ者を追い出しに来られましたか、地主殿」
男が白い牙を覗かせて笑う。
「間もなく夜が明ける。狭いあばら家だが、雨風をしのぎ、陽光をさえぎる役にはたつ。申し開きもさせていただけるなら、茶ぐらいは進ぜましょう」
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