煙花が見せる鮮やかな夢。地面に流れだす血の臭気と熱さ。ティアに殴打されたルスランの頭から流れ出す赤黒い…いや、違う。刺されたのは娘を守っていた父親と母親。ミルペンの指物師の作業場を染める、後悔の色。
これはダイアナの苦い敗北の記憶。犠牲者をオトリにして吸血鬼を誘い出し、倒そうとして失敗した古い傷。追い詰め、あと一歩のところで、ワナは砕け追跡は禁じられた。
ダイアナ達が守ろうとした娘は操られるまま、工具を握りしめ、肉親を手にかけ、扉の封印を壊し、青白い悪夢の元へ駆け寄った。見せ付けるように白い喉をさらし、幸福そうに笑いながら。
ダイアナ達が突き刺し焼き焦がし切り裂いた不死の身が、娘の献身で元の姿を取り戻していく。月明かりとタイマツを頼りに、必死で追うダイアナの前に、娘の死体が投げつけられた。
(だから素直に私の要求に応じたのか?お前たちに痛めつけられた私が、ティアを飲み尽くすと思って)
アレフが心話で問うても、ダイアナの意識からは秩序だった返事は返ってこない。ただ、怯えと悔しさと陶酔の感覚だけが繰り返される。
「見えるもの、感じるもの、何でもいい答えてくれ」
この呼びかけは、クジャク亭で会った貧相なヒゲの司祭か。
「お前がダイアナに幻夢の煙を吸わせたのか?」
ダイアナの声と口を借りて問うた。ダイアナ自身の意識が希薄なせいか、言葉は驚くほどなめらかに出た。
目の焦点が合うと、施療院にしては高価な壁紙としっくいの天井が見えた。細かな虫が肌をはいまわる感触は、おそらく幻覚。継続的な飢餓と酸欠が、理知や勇気といった彼女の美点をいちじるしく損なっていた。言葉もおぼつかないほどに。
「やれやれ、身ばかりか心まで犠牲にしたアニーもここまでか」
「貴様っ」
ダイアナの手で掴みかかろうとしたが、肉の落ちた腕の動きは遅く、高さも足りず、空をきった。
「オレはホッとしてんだよ。おめぇに気付かれた以上、もうコイツは自分で自分を壊さなくていい。やっと煙管《きせる》を取り上げられる。ったく、遅すぎたぐらいだ」
歯ぎしりしようとして、アゴも歯も弱っているのを感じた。
全身をいやすのはムリだ。実体は遠い地で真昼の倦怠感にあえいでいる。意識だけ憑依している状態では高度な術は使えない。それに転化した者ならまだしも、イモータルリングを着けていない生身の人間を、過去のままの健康体に戻すのは不可能だ。
脳の機能は戻せても、記憶の連続は失われ、心も変質してしまう。
「なぜ、小麦の取り引きを止める?」
「メンターのヤツがそんなこと言ってたかな。けど、そんなことオレみたいな下っ端に聞かれてもな」
ののしりたいが、目まいと悪寒でそれどころではない。考えられるのは…こちらの対応力を測ろうとしている。私の口付けを受けたものがどれ位いるか、その影響力はいかほどか。
いや、目的は私ではなくティアか。テンプル内の勢力争いの道具にするつもりだろうか。モルをけん制するための。あるいは…後釜か。英雄という名の道化にして、耳障りの良い夢を吹き込み、人々から金をだまし取るための。
「おめぇはもう覚えてないかも知れないが、オレと会った夜、生き血ほしさに1人殺したろ」
「あの若者を殺したのは私ではなく…」
「どっちだっていいさ、年取ってから生まれたバカでも可愛い末息子を吸血鬼に殺された親にとっちゃあな。少なくともエブラン商会が店をたたむ覚悟で航路から手を引いたのは、そのせいだ」
無辜《むこ》の民が苦しみ死のうとも、痛みを覚えぬ豪商たちだが、身内が傷つけられれば、利益をフイにしても怒りを現すものなのか。身勝手とはいうまい。私自身、知る範囲の者を案じるので精一杯だ。
「ところで、そろそろ体をダイアナ女史に返してやってくれんか。どうもご婦人の声と姿でその言葉づかいはな。本人が意識してやってるんなら魅力的だが、男が体を借りてしゃべってると思うと、耳の後ろあたりがムズムズするんだよ」
「この者をお前の術で治せるのか」
小貧なあごひげが、ゆっくりと左右に振れる。
「ハジムの眼を治した術なら、治せるんじゃねえのか?」
ムリだと言いかけて…ダイアナ自身が己が身に術を使えば、記憶と心を保ったまま、治せるのではないかと思いついた。
銀の短剣で刺された際、喉や脇腹の傷を癒すと同時に、服も復元してしまったように。自己の把握は細部にいたる。当人の無意識に任せてしまった方が、間違いないかも知れない。
一瞬、知識の拡散に関する禁忌が頭をよぎった。だが、この者はティアがハジムを治した場に居合わせている。呪を聞き、方陣を目にし、失われた体の復元が可能だと知ってしまっている。その限界も含めて。
ならば時がかかろうとも、いずれは解き明かしてしまうハズ。
必要なのは呪と方陣と、力の喚起。
血の絆で呪縛するときの要領で、記憶をいじり、知識を滑り込ませる。
意識をつづり合わせ、治癒の呪を使う際に力を引きだす心の最奥。限りある命の根源、帰るべき光の海。影として永久《とわ》に在るために、不死者が自ら捨て去った眩しい力に触れた。
これが太陽の命の一部なのか、いまだにわからない。この力を借りるために不死者は生者の血を求め、なるべく多く配下に置こうとするのだと、笑っていたのはファラだったろうか。ヴァエルだったろうか。
ダイアナが力使い始める。光の奔流《ほんりゅう》に弾かれ、アレフの意識は本体に戻った。
全身が重い。頭を押さえつける不快感は、真昼だからなのか、シリルに溢れる魔よけのせいなのか。気がふさぎ、眠気というより気絶するように意識が遠のく。
扉向こうの騒がしさに目覚めたのは、すでに日が沈みかけた夕方だった。
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