「ようこそ、サウスカナディ領へ。アルフレッド・ウェゲナー、滅びそこないの血の盟主」
夕日を浴びてそよぐ芦原の向こうから、芝居がかったしぐさでティアが差し招く。
地から上空へ伸びる極光に似た障壁が左右に割れる。境界を越えるための単純なマジナイ。それでも、今は助かる。
源流である大湖が雨季であふれた時のみ流れる涸れ川。とはいえ油断をすれば、周囲の耕作地をうるおしている地下水の流れに力を削られる。陽が沈みきっていない今、エイドリルとシーナンの水利権争いが起源などという、古くさい結界にまで力を削がれては、さすがに辛い。
乾いた川床を踏み越え、まっすぐ対岸へ歩をすすめる。
背後で結界が閉じるのを感じた。
このまま夜半まで歩き続ければ、ネラウスの町に着く。ティアの言うような廃墟とは思えない。たとえ禁呪で焼かれたとしても、花が咲き虫が戻れば人はこうむった痛手から立ち直り、しぶとく生活の場を再建する。昔のままの賑わいは望めなくとも、半月の旅に耐えうる馬車を仕立て、必要な物資を購入することは可能なはずだ。
大陸をつらぬく街道から外れてサウスカナディ城へ立ち寄り、旧友の安否を確かめたい。
地図上ではわずかな寄り道。だが、本当に石と砂に埋もれた砂漠を行くとしたら、時間的にかなり遠回りとなる。
ティアが大望を果たす時は大幅に遅れるだろう。その埋め合わせとして、あらかじめ用意していた取引材料は、ホーリーシンボルをより早く発動させる短縮呪だった。
滅する運命が避けられぬものなら、発動の遅い術でなぶられるより速やかな消滅の方がまだマシだ。我ながら後ろ向きだが、ティアが納得しそうな報酬を他に思いつけなかった。
だが、宿に戻った時、ティアの方から思わぬ提案があった。
「1つだけ、あんたの言うこと聞いてあげる。その代わり、これからあたしが頭に思い浮かべる事が、可能かどうか教えて」
読まされたのは黄ばんだ紙に共通文字で書かれた術式。関心のある事柄を見たまま記憶する者はたまに居るが、ティアもその1人らしい。だが紙をめくるペースが速い。全てを理解するまでにいく度か意識的思考の中断を求めた。
「だから男ってイラつく。物分り悪いし、思考がまだるっこしい!」
性差の問題ではない。表音文字のみの文章に慣れていないだけだ。表意文字にいちいち換えるのに時間を要するのだと反論しかけて、やめた。表層でもティアが思考を読ませてくれることはマレだ。なにより“言うこと聞く”などと譲歩したのは初めてだ。
「加害ヴァンパイアの血を触媒とした、治療者との一時的精神結合を用いての被害者の解呪。条件が整えば理論的には可能だろうが」
「条件って、なに?」
「治療者への信頼。そして互いの愛着が薄いこと…加害者、被害者、双方の」
血の絆を他者の割り込みによって断ち切られたなら、心の一部を引き裂かれるような痛みと喪失感を覚えるはずだ。想像しただけで気分が悪くなった。
「そして失った分の生命力をしもべに与える手段も用意しなければ、心を切り離す術式に耐えられない者もいる。だが、なぜ今さら」
術式を学んだのは代理人だった父親を解放するためだろう。だが町の者の手で殺され、死体も焼かれた今となっては無意味なはず。
ティアが心に封をかける直前に、女の声と赤い扉が視えた。
不用意に上げさせた悲鳴を聞かれたか。
通いの女中が朝の家事を終えて去った静かな家で、独り繕い物をしていた婦人。予定より早く来てしまった招待客をもてなしているつもりで、茶器と湯の算段をしながらぎこちなく笑んでいた。
招いておいて名を思い出せない罪悪感とあせり、わずかな疑念。
それらが消えるまで穏やかに客を演じ、時おり瞳を見つめて会話を続けても良かった。だが、どうせ記憶は封じてしまうと少しばかり性急に事を運んだ。
中庭に面した建物は無人。物音も声もドルク以外には聞こえないと。
渇きをなだめる為だけに、行きずりで襲った贄。最初から捨て置くつもりでも、いま彼女を奪われるのは辛い。同化しきれない血と共に鮮明な記憶と体温が体に留まっている。
「彼女を術式の検証に使うというのなら、触媒は与えられない」
「今、解くなんて言わないから。あんたが滅びなかったらのハナシ。風呂入ろっと」
風呂と並列して不吉な事を言われた気もしたが、とがめだてするより、部屋を出て行こうとしていたティアの背中に、サウスカナディ城へ行きたいと希望をぶつける方が大事だった。
なにより昼間に、感情的に受け入れ難い術式を考えると余計につらい。
暮れゆく空で数を増す星を見上げながら、地平の町を目指して歩いている今の方が、気もまぎれて思考もまとまる。
こちら側の愛着は時間が経ち、他の人間からも血をすする内に薄まっていく。人の方の愛着は…もしかすると中央大陸においては、淡雪なみに、儚《はかな》いかも知れない。
300年位前、教会が共通文字と共に教義を広めはじめてから、瞳の力が効きにくい者が増えた。血の絆もかつての様に“絶対”と言い切れまい。
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