長い夕暮れの影をぬい、前をゆく小ぶりな箱馬車をドルクは見やった。今、ムチを手に馬を御しているのはティアさんだ。アレフ様は淡い木もれ日を避け車中で休んでおられる。出立時に渡された皮袋の重みを不思議そうに確かめながら。
振り向けば、荷車に積みあげた干し魚の樽や麻袋ごしに、夕日を浴びたラウルスの防壁が見える。見張り台で手を振っているのは、夕刻の出立は考え直せと、最後まで引き止めていた宿の主人のようだ。
昨日と今日。たった2日間の診療所は、ここ最近の宿の赤字を返してのけたらしい。もしかすると商売替えを夢見たのかも知れない。妻子を北へやってから、酒びたりになった赤鼻の治療士に成り代われるのではないかと。
思い出し笑いがこみ上げた。
訪れた患者から宿の主がせしめた診療代の一部を渡された時のアレフ様のきょとんとした顔。無償のおつもりだったのか、相談者から密かに得た血を対価と思っておられたのか。
あるいは…ご自分で初めて稼がれた金に戸惑っておられたのかも知れない。
ドルクに手渡されたのは、奇妙な少女のやせた手になる弓の弦《つる》ひと巻き。雷神草から紡いで縒《よ》って樹液を染ませた上物だ。アレフ様に用意するよう言われて、鍛冶屋に鋳造《ちゅうぞう》させた銀の矢尻といい、人狼が懐に抱いて嬉しいものではない。
日が落ちて、薄い霧ごしに一番星が見える頃、前を行く馬車が止まる。
いつもなら御者台に向かわれるはずの主の白い頭が、森に向いた。馬車から離れ、夢遊病者のように木々の間に歩んでゆかれる。ティアさんが呼び止めても振り返られない。
「すみません、馬車をみててください」
手綱を傍らの木に巻きつけ、ティアに後を頼んだドルクは主を追って、森に踏み込んだ。春は小さな花で埋め尽くされる森も、今の季節は下草もまばら。朽ち葉は厚く、じゅうたんのように柔らかく足を沈ませる。
夜風と葉ずれに混ざるのは、小動物の立てる音と鳥の声。イノシシやシカのにおいは古く、危ない牙ネコやクマの気配は感じない。親方が初めて狩りの手ほどきをしてくれた、故郷の優しい森をドルクは思い出した。
人の手で作られた東大陸の薄っぺらい森や、雑多な命にあふれた中央大陸の森とは、臭いも風も音も違う。何より虫の声が聞こえない。樹液を吸うセミや、緑を食い尽くすイナゴやイモムシの類を、森は嫌う。
見かけるのはハチやアブ。水面に立つ蚊柱とトンボ。朽木を崩し枯葉を土に返す甲虫とアリ。妖精の化身のような美しいチョウもいるが、木の葉ではなく草を食べてサナギとなる種ばかりだ。
それにしても…迷いも見せず、森を行かれる主の背を見ていると不安がつのる。ドライアドに誘惑され、数百年を眠りの中で過ごした若い木こりの話が頭をよぎる。
不意に、頭上の葉がとぎれた。星明りの下に広がる丸い草地。古き大樹が死んだ時に生まれる空間。キノコが大地に輪を描き、虫がきらめく中に、中空の幹があった。
「雷でも落ちたのでしょうか」
立ち止まっておられたアレフ様がゆっくりと首をふる。
「心を」
開けとおっしゃるのか。目を閉じ、心話の要領で主の意識に触れた。直後、周囲を包む緑の光に驚いた。
陽光を求めて天空に枝を差し伸べる、つややかなトネリコの大樹。多くの鳥や虫を宝石のようにまとい、風に歌い雨に笑い、体内で育む愛しい人の忘れ形見に微笑む貴婦人。緑のドレスをまとった美女の幻影が木の前に立ち現れた。巨人といえる大きさだが威圧感はない。
「私たちを切り倒す武器を持ちし戦士よ。私はグリエラス・フリクター様の眷属、メリアデスの末娘…私がこの地に災いを導きました。あの者が街道を行くのを見たとき、造り主が戻ってきたとかん違いしてして、姉や伯母たちに歓迎するよう触れ回ったのです」
バックスとかいう元司教のことか。
「だけど、あの者は森に敬意を払わず、我が母を見せしめに焼きました。全ては私の軽率がまねいたこと。その罪を償うため、折れぬ弓を生み、我が娘に戦士をここまで導くよう命じました」
貴婦人が自らの身を裂く。血の代わりに樹液があふれ、大人の身長ほどもある優美な弓と、弦《つる》をくれたあの少女が現れた。
「だが、我らはバックスと手を結び、ある者を討とうとここ来ている」
アレフ様の声。先ほどと同じ立ち居地に…貴婦人の幻影に重なるようにたたずむ主の姿が見えた。
「人が木から離れて生きられぬように、あなた様も人から離れては生きられません。私が取るに足りぬ若木であった頃から、御身を養う温かき血を持つ人々を守護してこられたのでしょう」
貴婦人はほがらからに笑い、少女が弓を差し出す。
無言でアレフ様が弓を受け取られる。貴婦人は樹に戻り、周囲に夜が戻った。眼前にあるのは空ろな幹。枯死した大樹。
夢でも見ていた心地だが、主の手には夜目にも白い長弓が握られていた。
不意に頭上に影がさした。数十羽のフクロウが音も無く舞い、矢の素材となる真っ直ぐな木の棒と、羽を落としてゆく。困惑したまま、主と共に拾い集め、馬車に戻った。
猟師だった時に使っていたのは、ハンニの木やハゼをニカワで貼り合わせた短弓。だが、一本の木から成る長弓も、基本は同じはず。弦を張り中仕掛けをほどこす。矢はとりあえず3本だけ作ってみた。
まず、アレフ様にお渡しした。
手袋をしていただき、持ち方をお教えする。
「矢はつがえてくださいませ。大事な弓を守るためにも」
腕力は十分なはずだが、なんとも構えが不安定でうまく引くことがお出来にならない。矢はあさっての方に短く飛び、弦《つる》で、ほほと腕のうち肉を傷つけてしまわれた。
「こうよ」
ティアさんの構えは美しい。コツはわかっているようで、アレフ様よりうまく引き絞ってはいるが、非力はいかんともしがたい。なんとか狙った方には飛ぶといった状態か。
「考えたらさぁ、あたしは投げナイフがあるし、アレフは攻撃呪があるじゃない。わざわざ練習してまで、面倒くさい弓なんか使う必要、無いと思うんだ」
トネリコの弓と銀の矢を持つのは、わたくしの役ということか。人であった頃なら、引くのがやっとという強弓。だが、獣人の力をもってすれば、狙った的に続けて当てるのも難しくはない。しかし…。
緑の貴婦人が残した言葉が正しいとするなら、アレフ様はこの先、とても辛い思いをなさる。不死者を滅ぼすこの武器が、主を狂気から救う一矢とならぬよう、願うばかりだ。
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