「あの見習い…つるんでたのか」
深緑のじゅうたんに手をついたまま、タリムは呟いた。
「俺はバカだな」
声がかすれる。昔見た人形劇。大きな黒い人形に捕まって貪り食われる小さな人形に、アンディや見習い聖女が重なる。
オレも喰うつもりか。
青白い顔を睨《にら》みつけようとして、目を見るなと言われたのを思い出した。視線をそらすと、寝台に上半身をあずけたまま動かないアンディが目に入った。
「ご友人はしばらく目を覚まさない。数日は起き上がれない」
死んだらアンディも吸血鬼になるんだろうか。そしてオレやドリーや、コウノトリ亭のエミーを襲って、不死の呪いを広げるのか。
「ご友人は死んでも人のまま。安心して連れ帰って…面倒ならドロレス嬢に見させればいい」
声にしていない疑問に答えが返ってくる。心を読まれている気味悪さと絶望感に手足がなえる。
「雇い主と客を裏切ってあなた方を手引きした娘は、短くても幸せな時を得るはずだ」
ドリーの事もバレている。
短い幸せ…
「アンディは死ぬ、のか」
「人はいずれ死ぬ。愛情のこもった看護で長らえる者もいる」
はぐらかすような言葉。付け加えられた希望にすがっていいのだろうか。
「オレは、見逃してくれるのか」
「私に危害を加えない限りは」
すくむ手足を動かして、アンディににじりよる。安らかな顔。色の悪い唇と、首筋の二つの傷さえ無視すれば、熟睡しているようにも見える。
黙っていたら俺は助かる。でも犠牲者は増え続ける。ドリーや給仕や、宿の者がこの部屋に呼びつけられて…
すぐ後ろで小さな笑い声を聞いてすくみ上がった。
「失礼。これを取っておきなさい」
シャツの左ポケットに数枚のコインが滑り込んできた。重みから金貨だと思ったが額を確かめる余裕はない。
「騒いだら、俺たちが金貨を盗んだと言い立てるのか?」
「…なるほど、そういう手もありますね」
何のために、そして、どうやってアンディが客室に入ったのか。説明したらドリーまでも破滅させてしまう。決定的な弱み。
「汚ねぇ」
「あなた方とは共感しあえると思ったのですが」
落ち着き払った声に怒りが込み上げてきた。
「共感? なんだそりゃ」
「どうしても必要な物を手に入れる方法が、少しマトモではないという点で。他人の物を奪わなくては生きていけない身の上同士、理解しあえると」
耳元へのささやきに、首をちぢめた。真後ろにいるハズなのに体温を感じない。気配がうすい。わざとらしいため息は、温かくも冷たくもない。
「金貨に心動かされず、己の罪が露見することも覚悟の上。買収も保身も眼中に無い、潔癖で勇敢で立派な若者には、こう言ったっ方が良かったか」
首筋に冷たい指が触れる。
「私は昼でも動けます。齢を重ねた不死者は陽の光で即死はしません。少なくともこの宿にいる者全員の喉を食い裂くぐらいの事はできる。証を見せましょうか」
鎧戸が開けられた。まぶしい光が差し込んで目を射る。恐る恐る目を開けると窓際で光を浴びている白く細い姿が見えた。
「あなたは勇気がある。見知らぬ他人をも守ろうとする立派な心がけもお持ちだ。でも、この宿の者全員の命を盾に取られてしまっては、どうしようもない。私を告発できなくても卑怯でも恥でもない」
歯の浮くような世辞に秘められた嫌味。言葉でいたぶるのを楽しんでる。
「良心を眠らせるのは夕方、私が船に乗るまで。手続きはすでに私の仲間が済ませている。何より…」
「アンディ!」
扉の開く音と、ドリーの声。
悲鳴とともにアンディに駆け寄ってきて、ゆさぶった。ドリーは一瞬、敵意のこもった目で壁際の魔物をにらんでから、タリムにすがるような目を向けた。
「何があったの」
「だから、強盗だと思って突き飛ばしたら、打ち所が悪かったらしくて目を覚まさないの。一応、治癒呪はかけたから、2~3日寝込めば気がつくんじゃないかな」
裏切り者の聖女見習いが、寝台の上に金の詰った小袋を置く。
「なんでアンディが部屋に入れたのか、聞かれるとあんたも困るでしょ。だから見舞金で手を打ちませんか、だって。
そのお金で精のつくもの食べさせてあげて。弱っている時に優しくしてくれた女と結婚する男って、多いらしいよ?」
ずるい手だ。いま陽の中に立っている吸血鬼にアンディは襲われたのだと言っても、たぶんドリーは信じない。いや、信じたい幸せな未来しか、ドリーには見えない。
ぐったりした親友の体を肩にかつぐ。ドリーが心配そうに、でも、どこか誇らしげにアンディの脇に背を入れて支える。
宿の下女をだましての泥棒家業は、そう長続きしないと思ってた。女たちが焦り始め、誰かが恋敵を蹴落とそうと密告でもしたらおしまいだ。
アンディにとって、これが潮時なのかもしれない。
聖女見習いが先回りしてあけた扉をくぐる。不意に満面の笑みを浮かべたのが不思議で、視線の先を振り返ってみた。
「熱っ」
小ビンのフタを開けて、すぐに放り出し、恨めしそうに右手を振っている吸血鬼。
中身は本物の聖水だったのか。
「バッカじゃないの。泊まってる宿で…」
扉が閉まる直前、もれ聞こえたキツい声。自ら招いた窮地で女の手に頼り、返しきれない大きな借りを作ったのはアンディだけじゃないらしい。
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