影を足元にへばりつかせる真昼の光を浴びながら、ティアは灰色にかすむ遠い城館に目を向けた。背後では、代理人が乗った馬車の車輪が、かしましく石畳を噛み、それぞれの故郷目指し疾走していく。急いだところで、アレフが倒されれば全ては無駄なのに。
とりあえず、スタッフは返してもらった。でも、これだけでは心もとない。浄化の呪の初歩といえば聖水。前は軽く見てたけど、この前、身をもって威力を知った。それに、聖水はその気になればたくさん用意できる。
まずは真水を調達しないと。海に近いこのあたりの共用井戸は塩分がどうしても混ざるから、買うとしたら…
「テンプルのヤツに飲ませる酒なんてないね」
「誰も酒なんか頼んでないって。あたしが欲しいのは、上等な酒を割るのに使うキレイな真水。ワインの空き瓶に10本ばかり詰めてよ」
大通りに面した、大きな酒場のオヤジと押し問答してたら、いつの間にか女給だの昼飯食いに来てた客だのに囲まれていた。これはちょっとヤバいかも。大立ち回りしたら、高そうな酒とかグラスとか全滅だよね。弁償とか治療費とか全額押し付けたらさすがに怒るかな…あのオバさん。
「はいはい、ごめんなさいよ」
不意に肩に手を置いてきたヤツを反射的にニラみつける。いつもの鼻の下伸ばした白い顔の代わりに、ドルクの笑顔があった。この愛想のいいひげオヤジ相手だと、何だか調子がくるう。
「まあまあ、ここは私に免じて…」
店のオヤジが顔を引きつらせ、客たちがザワめいたのは、ドルクが首に巻いた赤い布のせいだな。オバさん同様、立派な身分詐称……でも無いのか。牙の痕はなくても、太守と心が繋がった側近なのは本当だ。
「このハネッ返りは私の知り合いでね。見習いのクセに城の“なりそこない”を浄化して安らかに眠らせてあげるんだと、まぁ、えらく張り切ってまして。そこまで言うんなら、ひとつやらせてみようかと言うことになって…それで、真水なんですが、用意していただけませんかね。お金はお支払いしますから」
カウンターに金貨が置かれて、あたしもビックリしたけど、酒場のオヤジも目を丸くしてる。
「あ、ついでに何かおなかに溜まる物もお願いしますよ。朝から何も食べてなくて、ぺこぺこなんですよ。ティアさんもおなか、減ってるでしょ?」
「え、うん」
「…イモを練りこんだ麺のスープでいいか。野菜と塩漬け肉もたっぷり入ってる」
セージを効かせた山盛りの皿が2つ、目の前のカウンターに置かれた。お腹が鳴り出す。そういえば、昨日の夜から何も食べてなかった。もしかして、指輪を介して代理人候補を貪っているアレフに同調しちゃって、ハラペコなのにあたし気づかなかった?
うー、ヤダヤダ。
厨房の奥では見習いらしき男のコが、オヤジの指示でロウト片手に水をビンにつめてはコルクで栓をしてる。コトは順調に進んでるけど、面白くない。
「なんでドルクだとみんな言うこと聞くのよぉ」
「せっかくバーズ女史がくれた物を、ティアさんが使わないからですよ」
ドルクがさりげなくスプーンを向けたポケットから、赤布がはみだしてるのに気づいて、慌てて奥に突っ込む。
「あたし、噛まれてないもん」
噛まれたとしても、誰がこんなダサいもん結ぶか。なんだか腹が立って、スープ皿を持ち上げて料理をかっこんだ。
緑に茶色、なで肩にいかり肩。形も色もバラバラのビンを、酒場のオヤジは一本ずつ麻ヒモの網に入れてくれた。それを前後に5本ずつ振り分けて肩げてんのに、背筋は真っ直ぐなまま普通に歩いてる姿をみると、つくづくドルクも人間じゃないと思う。ううん、これぐらいの芸当なら鍛え抜かれた聖騎士ならやってのけるか。
「ねぇ、アレフの側に居なくていいの?」
剣の腕は信頼できるし、目的地まで結構あるから、こうやって重いモノを持ってくれるのは助かるけど、あたしなんかに付き合ってていいんだろうか?
「血の絆を結んだしもべが数人がかりで守ってくれてますから。私ひとりぐらい居なくても大丈夫ですよ。それより、貴女を自由にさせておくほうが心配です。色んな意味で」
保護者気取りは相変らず…要はあたしが信用されてないってコトか。
裏町に入ってしばらくすると、まわりの建物が低くなってゴチャついてきた。足元の石畳が割れたり剥がれたりしててコケそうになる。
ドブ臭さが鼻についてきたころ、急ごしらえの一階に日干しレンガで二階を継ぎ足し、ついでに廃材を寄せ集めたらしい屋根を、つけたして道にまで軒をはみ出させた学び舎にたどりついた。
これは教会というより悪ガキ共の砦に近いかも知んない。
中に入れなくしている、クサリが巻きついた杭は蹴り倒した。物見高く遠巻きについてきてた連中や、窓から顔出してるヤツらが騒ぎだしたけど気にしない。衛士を呼ばれてもドルクがいるから大丈夫…かな。
壁に掛けられた表や黒板、机や石版にうっすら土ぼこりがつもってた。
図書房も印刷工房も、荒らされてはいないけど、ホコリと雨漏りで薄汚れてる。でかい錠前と結界の方陣で厳重に封印された地下室には、通信に関わる機密書類だの金塊が保管されてるハズだけど、今んところ用は無い。つーか、世界中の商人を敵に回したくない。
用事があるのは一番奥の教室の一角を占めてる祭壇だ。捧げられた花は枯れてるけど、ここはそんなにホコリっぽくなかった。
「ここにビン、並べて」
「おおせのままに…」
ウィンクしたドルクが網から出したビンを祭壇前に並べた。
祭壇には、簡単な文字と基本的な計算を人々に広めることで世界を変えられると信じて、一生を教会作りと教育に捧げ…本当に世界を変えてしまった男の似姿が掲げられている。
まぁ、確かにオリエステ・ドーン・モルは偉人には違いないけど、絵の具を塗りたくった紙きれなんかに、単なる真水を聖水に変えるなんて力、あるわけない。
水を祭壇に供えるのは、ちょっとしたケンイ付け。実際に力を与えるのはあたしだ。でも祭壇って力を集中させる結界みたいなモンがあるから、今みたいに聖水を大量生産したいとき少しは楽できる…かな。
空から無限に降り注ぐ陽光を受け止めるように、体の前でてのひらを上に向け、集まってきた暖かな力をビンに詰めた水に注ぎ込む。ちょっとしんどいけど、ここでがんばっておけば後は手間要らず。てゆーか戦闘中にこんな事ちんたらやってらんないか。
「何をしているんです」
不意に声をかけられて振り向くと、コロコロした30歳くらいの男が、教室の入り口にたっていた。首から垂れてる紐は黄色…准司祭、ううん、テンプルの聖籍を持たない代理教官か。
「見てのとおり、お祈りよ、オイノリ」
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