果ての見えない朝もやに向かって投網が打たれた。舟が揺れ、いびつな円形に湖面がざわめく。歯痛に呻きながら網を手繰っていた船頭が笑う。派手な水音がした。網に絡んだ大魚が、ナイフの柄で殴られる。エラと尾に刃が滑り込み命を奪う。
アレフはヒザを抱いて、魚から滴る血を見ていた。背後には屈託の無いティアの寝息と、遠慮がちなドルクの気配。
大湖を渡るのに選んだ舟には、1本の櫂と帆柱。そして古い帆を吊っただけの簡便すぎる幌。横になれるのは2人。雨露も陽光も満足にしのげない。
舟べりで船頭が引くウロコが顔に当たった。船頭は詫びるどころか、目もくれない。
この舟で最初に供された夕食を固辞して以来、居ないものとして扱われている。かれこれ3日目。よほど気分を害したらしい。好都合だが居心地は悪い。
解体された魚が、水を吸った木豆と共に、すすけた鉄ナベに放り込まれた。
ドルクが身を起こし湖水で手と顔を洗い、朝の支度を手伝う。
小さな素焼きの炉にかけられたナベが吹きこぼれる頃、ティアが起き出してきた。
「また魚と豆…ヒゲグロって小骨がウザいんだよね」
文句を言いながら、図々しく一番大きな塊りを取り、豆を器に盛りあげる。
魚肉を貪る3人に背を向け、陽避けの下で横になった。食器に当たるサジの音。湖に投げ捨てられる骨。発酵し形を無くした塩漬けの小魚に、果実酢を混ぜたソースの臭いも鼻につく。
ドルクが洗い物を終える気配に薄目を開ける。船頭が三角の主帆を張っていた。風の精が帆に戯れ、舟がかたむく。
ミノムシの様に身を縮めマントをきつく巻きつけていた手を、ティアに引きずり出された。
「はい、交代」
未熟な風の精が宿主を替える。少し負荷が減った。だが昼光は容赦なく力を削る。
目まいの後、気を失うように眠りに落ちた。
「地の結界を封じた球って、どうなってんの」
目を開けると、青空を灰色に侵食する大きな雲が見えた。輝く縁から放射状のヒダとなって降る光は少し和らいでいる。
陽光を防ぐ結界に力を奪われ、半日近く夢も見ずに眠っていた様だ。
ティアの手にコハク色の輝きを封じた水晶球が握られていた。ベルトの物入れを勝手に漁ったのか。財布の残金を正確に思い出そうとして、諦めた。
「精霊の紋や魔方陣とは違うよね。使い魔とか自動人形みたいなもの? 風の精も封じられる?」
昼の間、風の精霊を御し続けるのに飽いたか。
「力持つ魔術書や護符に近い、術式そのものを込められる書き換え可能な呪具。風の精も封じられるが…彼女は気まぐれだ。恒常的に舟を推させるなど、とても。
制御できない突風は起こせるだろうが」
「じゃあ火は封じ込められる?火炎呪、使い放題になれるとか」
「触媒が、何か燃える物が移送できない以上、使い放題とは」
「やっぱ油いるんだ。テンプルの火炎呪と変わんないのね」
話が物騒になってきた。冷気の呪とホーリーシンボルなら込められる…というのは、言わない方が良さそうだ。
とはいえ水晶球に込められない術式の方が多い。この術具の最大の利点は、魔導を学んでない者でも使えることだろうか。イヴリンに預けてきた水晶球は、期待以上に役目を果たしている。
目を閉じ、名代を務めるイヴリンに接触を図る。今のところ、東大陸に重大な問題や大規模な災害は起きていない。気配が消えたしもべもいない。
ウォータで口付けを与えた者たちにも、意識を向けてみた。オーネスの苦労をねぎらったあと、恐る恐るミリアに触れる。
(お召しでしょうか)
応じたのは硬く敵意すら感じる心話。当分は訪ねられないと告げた。失望に勝る安堵に呪縛の弛みを感じる。
苦笑して離れようとした時、ミリアの心を法衣を着た黒髪の司祭がよぎった。
妙に深刻な顔をした、ルーシャと名乗る司祭。詳しく見ようとした時、雷鳴が耳を打った。意識が引き戻される。
「来るよ、すごいのが」
ティアが指差す方向。黒い雲から落ちる雨が、白い壁となっていた。
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