橙色の波間に飛び込んだ白い鳥が、赤いクチバシに小魚をくわえて舞い上がる。頭が黒い。旅をやめたはぐれアジサシだろうか。
「大きい川はコクトスで最後なんだけど」
地図を弾く音が耳に突き刺さる。ドルクは御者台から車中を振り返った。
「…まだダメ?」
ため息をつくティアさんの前で、アレフ様は弱々しく首を振っておられる。
「船着場で満潮がいつか聞いてまいります」
高く広い苔むした石橋のたもとに止めた馬車を離れ、長い影を落とす杉の丸太で組まれた市門をくぐった。
「やっぱ夜道はやめとくかい?」
声をかける門番には苦笑で応える。
北の空の縁《ふち》に頼りなく浮いている陽や、どちらに流れているのか見ただけでは分からない川のせいにしておられるが、ご気分がすぐれない理由は別にあると感じていた。
ここシルウィア港の城壁にも、人を焼いた臭いが染み付いている。潮の香りや汽水域の泥くささを圧する不吉な臭気は、血を求めて闇をさまよう不死人に向けられた敵意の表れ。日没ともに市門は閉ざされ、人は丸太と泥の壁の内側…魔よけを施した家の中に閉じこもる。
20年前、東大陸との交易を禁じた石壁と塔を持つ教会も、今は空っぽ。鐘は時を告げず子供たちの姿もない。森の大陸南部は見捨てられたとロバにも分かる。金と力のある者は安全な北へ逃れた。残っているのは逃げたくても逃げられない弱い者か、信念や愛郷心に殉じる愚か者。
「おーい、あんた…聖女様のお供の人だったよな」
東の倉庫前で鼻の丸い男が手を振っていた。愚直と呼ぶにしても人が良すぎる青年は川で艀を差配する船頭組合の代行理事。名はライリーだったろうか。
「もう行ったと思ったが…やっぱブルっちまったか?」
首には破邪の紋を刻んだ香木のチョーカー。街の周囲に埋めた水ガメとかがり火の結界ともども、ティアさんが魔よけとして指導したモノだが…どれほど効果が見込めるものやら。少なくともアレフ様は気にしておられなかった。
「魚臭いだろ」
豪快に笑いながらライリーが振り返るのは、4頭の馬を繋いだ荷馬車。連結された荷車には干し魚の樽と穀物袋が限界まで積まれ、縄と布で固定されていた。
「昨日、川舟で届いたシリルの香茶と薬草の対価さ」
「返す舟に乗せるとおっしゃってましたよね。水上の方が夜は安全だと」
「それがさぁ、みんなビビっちまって川登り出来るほど漕ぎ手が集まらなくて、参ったよ。しょうがないから、俺ひとりで運ぶことにした。シリルに牛や羊はいないし麦畑もないから、みんなひもじい思いをしてるハズさ」
ウッドランド城のグリエラス様は森を愛するあまり、家畜と耕作地に重い税をかけられた。それが、いまだに尾を引いているらしい。理由は森の恵み…香茶と薬草がいい金になるからだろう。
「干し魚や麦を必要としている者がまだいると良いのですが」
「パーシーさんが頑張ってるかぎり、シリルは無くならないさ」
ライリーの声に敬意と憧れがにじむ。シリルの長の名か。いまだに持ちこたえているとすれば、パーシーとかいう者の指示で、シリルの周囲には魔を退ける結界が張られているかもしれない。
「もし、よろしかったら…私たちで運びましょうか」
「そういや、あんたら商人だっけ。力のある聖女様を護衛に雇えるって事は、デカい商売してるんだろうなぁ。こんな運び屋みたいな賃仕事、若旦那が嫌がらないかい?」
「まあ、何事も経験ですから」
そんなものかと、うなづく単純な青年理事に、荷馬車と馬を借りる保証金として紅玉を2つ渡し、御者台をゆずってもらった。
「パーシーさんは意外とケチんぼなんだ。うまいこと話を持ってかないと、駄賃を値切られちまうから気をつけろよ」
手綱に手をかけてから、聞かねばならないことを思い出した。
「ところで、次の満潮はいつかご存知ですか」
「川の流れが止まるのは…陽があの二連山の間に来る頃かな」
淡い紫色のなだらかな二つの影を眺める。あの山のむこう、森の間に点在する村々のうち、もっとも城に近く大きなものがシリルだった。
「急げよ、川の流れが止まると、吸血鬼が渡ってくるっていうから。まぁ、本当かどうかは分かんないけどさ」
あいまいに笑ってうなづき、ムチを当てた。荷が重い上に、4頭の息がいまひとつ合わず、動き出すまで少しかかった。曲がり角では後方の荷車の動きに注意が要る。慣れるまでは歩くより遅い速度でゆくしかない。
さて、もう1台の馬車をどうするか。ティアさんは馬車も操れたハズだが、夜目が利かない。
見よう見まねでどこまでお出来になるか…
「まぁ、何事も経験でございますかね」
少なくとも悩まれるお時間は減りそうだ。
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