キニルという街を、ドルクは好きになれない。
灰色に垂れ広がる肥満した街。数千年の昔から都市でありつづけた人の巣のカタマリ。息がつまる。
外周には棒を立てボロ布を掛けた粗末なテント。拾った板をはぎ合わせて作った仮小屋。汚水でぬかるみ腐臭ただよう難民の町。
争いで町が焼ければ、家族と暮らしが奪われる。帰る場所を失った者が、生きるために集まり結んだ砂粒のような家々。
そんなささやかな営みを押しやって、レンガや石で組まれた大邸宅がそそりたつ。赤や紅色の高い塀をめぐらせた広い庭を持つ屋敷。緑豊かな農村や森が背景なら見栄えもよかろうが、貧民街のただ中では、華やかな屋根飾りや、いかめしい門扉は醜悪でしかない。
昔も富裕と貧困が隣り合う街ではあったが、街区によって分けられていたはず…。
「そこの緑屋根に八角の小塔がある家。あたしの最初の恩師が建てたんだって」
ひとり馬上にいるティアの顔に嘲りがにじむ。
街を南北に区切る大通りを見下ろす物見の台。立ち止まりフードごしに目を向けられたアレフ様が、軽く舌打ちをされる。花や飾り紐を手に群れる童が、物入れに手をかけた様だ。
「前は師を訪ねるヒマも無かったのか。なら今からでも」
「向こうは覚えてない。クインポートの教会って授講料タダじゃん。だから廊下まで生徒があふれてる。ハシっこでヒザや壁を机代わりにしてたガキなんて、ジジイの目には入んないよ」
「なかなか蓄財の術に長けた方のようで」
ティアの真意はともかく、成した事の結果をご理解いただくのは悪い事ではない。
「教えるより商人と話してる方が好きだったみたい。余った寄付金やガメた助成金を、ウマ味のある商品に換えてキニルで売って、立派なお屋敷たててゼイタク三昧」
領民が自ら明日を拓く術を学ぶものと期待して、乏しい財政から絞り出した金。それが眠っておられる間に掠め取られ、個人の利殖に費やされていた現実の苦さに、主の唇が引き結ばれる。
「身勝手な教育官ばかりではございませんよ」
荷を背負わせた馬の手綱を引きながら、一番マシだった代理教官の痩せた顔を思い起こす。
似たような手段で得た大金を手に、死蔵されていた印刷機を求めてカウルの山道を辿って来た若い代理教官。何時目覚めるとも知れぬ主には無用となった馬車と共に払い下げた。
その金で人足を雇い城の防備をかためる普請に取り掛かった頃、クインポートで刷られた無料の教本が一部届いた。草の繊維を漉いた紙をつづった薄い本。羊皮紙を綴じた城の蔵書に比べあまりにもろく粗末で、同じ印刷機を使ったと思えなかったが…限られた時を生きる者に相応しい書物だとも感じた。
一抱えはある白い石柱が、道に3本そびえ立っている。旧市街の市門。今まで目にしてきた中央大陸の町や村に比べて、あまりに開放的だ。
ファラ様が湖の島で今の世を開かれて以来、キニルは世界の中心であり続け、失火はあっても焼き討ちや略奪に遭った事は無いと聞く。
町並みに秩序はあるが、どこかしら奔放で華やか。テラスの花と果樹、壁面を飾る艶やかなタイル。路地にひらめく色鮮やかな干し物。頭上に渡された空中廊下。道に敷かれた石は花や魚をモザイクでかたどり、猥雑な市場をアーチ状の屋根がおおう。
地平へ消える大路の果てに、厳重な城門が見えてきた。淡水湖に浮かぶ広大な島へ通じる大橋の入り口。
3階層のファサードには、薄物をまとった顔の無い女王と火を吐き風を起こす竜の浮き彫り。その足元では、大剣を背負う騎士が2人、通行料を払う人々を威圧している。
大路と同じ幅の石造りの橋。その半ばあたりから見え始める白亜の宮殿。尖塔と優美な曲線をはじめて目にした時の記憶が鮮やかに蘇る。
今は灰色の法服が棲みつき我が物顔で歩き回っているとしても、遠目には往時の姿を保っていると信じたい。思い出を打ち砕く絶望を目にするとしても、橋を渡らなくては。
門に近づくにつれて、暗い連想ばかりが浮かぶ。この先は敵のただ中。素性がバレたら絶望的な最期がまっている。次第に足が上がらなくなる。悪いものでも食べたかのように胸がムカつく。寄付という名目の金を払おうとして、たまらず座り込んだ。
「どうしたの」
下馬して覗き込むティアは平気そうだ。人を手にかけたばかりだというのに、いつもと同じ様に朝食をたいらげたこの娘が元気なら、食あたりとは考えにくい。
振り向くとアレフ様が手招きしておられた。吐き気と目まいをこらえながら傍らにヒザまずく。
「強力な結界が施されている。心話も阻害される。無理に越えようとすれば無事にはすまない。おそらく気付かれる」
主の方が、より辛そうなのに気付いた。
「…では、ひとまず宿を取りましょう。夜になれば少しはマシかもしれません」
引き返すと決めたとたん、心と体にかかる負担が減る。
「ちょっと、橋の向こうにも宿坊はあるよ」
手綱片手に抗議するティアを無視して、東の街区へ向かおうとした時、来た道からざわめきが近づいてきた。
人々が退き、道端から見つめるのは、馬の背に遺体を乗せて運ぶ聖女。思ったより早く意識を取り戻したらしい。その後ろには同じく遺体と共に揺られながら、宙空を見ている拳士。
アレフ様が幻術の呪を呟き、人垣にまぎれた前を行き過ぎたあと、聖女らは仰天した騎士達に迎えられた。
「血の呪縛も届かないか」
呆然と呟く主に、改めて大橋の門を見上げた。生身の人は通せど、不死人を拒む見えない境界。テンプルもなかなか侮れない。
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