寝椅子に横たわっている青ざめた娘の喉には痛々しい傷跡があった。ドルクは用意していたスカーフで傷を隠した。
「おもしろい客が来ているな」
食後で高揚している主の声に黙ってうなずいた。
「本人が望むのなら久しぶりに男も味わってみるか。この間見た時は、なかなか美味しそうな若者だった」
ドルクは思わず主を見つめていた。そして慌てて目を伏せる。
「ここへよこせ」
「はい」
娘を抱き上げながら、ドルクは事務的に返事をした。
主の目には互いを思い合う美しい恋人同士の姿は映っていない。多分、皮膚が柔らかで血が旨そうな若い人間。自分から皿に飛び込んできたご馳走としか見えていない。
「違う快楽を同じと信じ込むより、二人とも同じ至福感を、それも最高のものを味わうほうが幸福だろう」
口元は優しげな笑みを刷いているが、目は貪欲で危険な光をたたえている。次の獲物に狙いを定め食欲を思うさま満たせる期待に輝く飢えた肉食獣の目。
生きながら食われる者が感じるという、不可思議な安心感と多幸感。それが果たして性愛に勝るものかどうかドルクは知らない。ただ今の主は食うこと以外の快楽を知らない。食らう側が至福を覚えるからと言って食われる側が同じものを感じるとは限らない。
そう反論したいが、その事に確信をもって答えられるのは主のほうかも知れない。犠牲者の心なら手に取るように読めるハズだ。
ドルクは納得するしかない。
ただ、主は本物の恋を知らない。
娘を別室で寝かせてから、階下に下りた。
若者が代理人に慰められていた。
「アレフ様がお召しになると……」
驚いた代理人が顔を上げる。
「部屋で待っておられます。お急ぎを」
若者が一瞬怯えたようにあたりを見回した。それから一瞬助けを求めるようにドルクを見た後、うつむいた。
しかし顔を上げたときそこには静かで穏やかな顔があった。
「これで……、カリーナと一緒になれる」
そしてゆっくりと階段を上がり、かつて決死の思いで飛び込んだ部屋へ静かに消えた。
一緒になるのは二人の血潮だけで、それも主の腹の中で、だ。久しぶりの満腹感を楽しむつもりでいる貪欲な存在の餌食になる事が本当に幸せなのだろうか。その前の術にかかったまやかしの幸せが望みなのだろうか。
もっとも、主の前でその意志に逆らい得る者はいない。
求められた瞬間、恐怖で立ちすくんでしまい、そのまま主の手に捕えられる者を何人も見てきた。意志の力で何とかその状態から脱しても、力でかないはしないから、逃げる事は出来ないだろう。目を付けられた者、主の興味を、食欲をかきたてた者が、助かったことは今までない。
人は、闇を統べる者たちに食事として提供されるために生かされている。そんな家畜同然の立場になって幾千年もたつという。諦めとそれは幸せなのだという、昏い常識。
しかし食らう者たちも元は同じ人だったはずだ。主がまだ生身だった頃の温もりをドルクの手はまだ覚えている。
今頃、若者を貪っている主を思いながら、釈然としない思いでドルクは酸味が舌を刺す牛乳酒をあおった。
了
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